山越しの阿彌陀像の畫因
折口信夫
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《》:ルビ
(例)正《シヤウ》
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(例)稱讚淨土佛|攝受經《セフジユギヤウ》
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(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて
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(例)光芒忽自[#二]眉間[#一]照
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)數[#(个)]條
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(例)さう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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[#天から1字下げ]極樂の東門に 向ふ難波の西の海 入り日の影も 舞ふとかや
渡來文化が、渡來當時の姿をさながら持ち傳へてゐると思はれながら、いつか内容は、我が國生得のものと入りかはつてゐる。さうした例の一つとして、日本人の考へた山越しの阿彌陀像の由來と、之が書きたくなつた、私一個の事情をこゝに書きつける。
「山越しの彌陀をめぐる不思議」――大體かう言ふ表題だつたと思ふ。美術雜誌か何かに出たのだらうと思はれる拔き刷りを、人から貰うて讀んだのは、何でも、昭和の初めのことだつた。大倉粂馬さんといふ人の書かれたもので、大倉集古館にをさまつて居る、冷泉爲恭筆の阿彌陀來迎圖についての、思ひ出し咄だつた。不思議と思へば不思議、何でもないと言へば何のこともなさゝうな事實譚である。だがなるほど、大正のあの地震に遭うて燒けたものと思ひこんで居たのが、偶然助かつて居たとすれば、關係深い人々にとつては、――これに色んな聯想もつき添ふとすれば、奇蹟談の緒口にもなりさうなことである。喜八郎老人の、何の氣なしに買うて置いたものが、爲恭のだと知れ、其上、その繪かき――爲恭の、畫人としての經歴を知つて見ると、繪に味ひが加つて、愈、何だか因縁らしいものゝ感じられて來るのも、無理はない。
古代佛畫を摸寫したことのある、大和繪出の人の繪には、どうしても出て來ずには居ぬ、極度な感覺風なものがあるのである。宗教畫に限つて、何となくひそかに、愉樂してゐるやうな領域があるのである。近くは、吉川靈華を見ると、あの人の閲歴に不似合ひだと思はれるほど濃い人間の官能が、むつとする位つきまとうて居るのに、氣のついた人はあらうと思ふ。爲恭にも、同じ理由から出た、おなじ氣持ち――音樂なら主題といふべきもの――が出てゐる。私は、此繪の震火をのがれるきつかけを作つた籾山半三郎さんほどの熱意がないと見えて、いまだに集古館へ、この繪を見せて貰ひに出かけて居ぬ。話は、かうである。ある日、一人の紳士が集古館へ現れた。此畫は、ゆつくり拜見したいから、別の處へ出して置いて頂きたいと頼んで歸つた。其とほりはからうて、そのまゝ地震の日が來て、忘れたまゝに、時が過ぎた、と此れが發端である。正《シヤウ》の物を見たら、これはほんたうに驚くのかも知れぬが、寫眞だけでは、立體感を強ひるやうな線ばかりが印象して、それに、むつちりとした肉《シヽ》おきばかりを考へて描いてゐるやうな氣がして、むやみに僧房式な近代感を受けて爲方がなかつた。其に、此はよいことゝもわるいことゝも、私などには斷言は出來ぬが、佛像を越して表現せられた人間といふ感じが強過ぎはしなかつたか、と今も思うてゐる。
この繪は、彌陀佛の腰から下は、山の端に隱れて、其から前の畫面は、すつかり自然描寫――といふよりも、壺前栽を描いたといふやうな圖どりである。一番心の打たれるのは、山の外輪に添うて立ち竝ぶ峰の松原である。その松原ごしに、阿彌陀は出現してゐる訣であつた。十五夜の山の端から、月の上つて來るのを待ちつけた氣持ちである。下は紅葉があつたり、瀧をあしらつたりして、古くからの山越しの阿彌陀像の約束を、活さうとした古典繪家の意趣は、併しながら、よく現れてゐる。
此は、爲恭の日記によると、紀州根來に隱れて居た時の作物であり、又繪の上端に押した置き式紙の處に書いた歌から見ても、阿彌陀の靈驗によつて今まで遁れて來た身を、更に救うて頂きたい、といふ風の熱情を思ひ見ることが出來る。だから、漫然と描いたものではなかつたと謂へる。心願を持つて、此は描いたものなのだ。其にしては繪樣は、如何にも、古典派の大和繪師の行きさうな樂しい道をとつてゐる。勿論、個人としての苦悶の痕などが、さう/\、繪の動機に浮んで見えることは、ある筈がない。繪は繪、思ひごとは思ひごとゝ、別々に見るべきものなることは知れてゐる。爲恭は、この繪を寺に留めて置いて、出かけた旅で、浪士の刃に、落命したのであつた。
今かうして、寫眞を思ひ出して見ると、彌陀の腰から下を沒してゐる山の端の峰の松原は、如何にも、寫實風のかき方がしてあつたやうだ。さうして、誰でも、かういふ山の端を仰いだ記憶は、思ひ起しさうな氣のする圖どりであつた。大和繪師は、人物よりも、自然、裝束の色よりも、前栽の花や枝をかくと、些しの不安もないものである。
私にも、二十年も前に根來・粉川あたりの寺の庭から仰いだ風猛《カザラギ》山一帶の峰の松原が思ひ出されて、何かせつない[#「せつない」に傍点]氣がした。瀧や、紅葉のある前景は、此とて、何處にもあるといふより、大和繪の常の型に過ぎぬが、山の林泉の姿が、結局調和して、根來寺あたりの閑居の感じに、適して居る氣がするのではなからうか。
さて其後、大倉集古館では、何といふことなく、掛けて置いたところが、その地震前日の紳士が、ふらりと姿を顯して實は之を別の處に出して置いて、靜かに拜ましてくれというたのは、自分だつたと名のるといふ後日譚になり、其が、籾山さんだつたといふ事になつて、又一つ不思議がつき添うて來る、といふことになるのだが、此とても、ありさうな事が、狹い紳士たちの世間に現れて來た爲に、知遇の縁らしいものを感じさせたに過ぎぬ。が、大倉一族の人々が、此ほど不思議がつたといふのには、理由らしいものがまだ外にあるのであつた。事に絡んで、これは/\と驚くと同時に、山越しの彌陀の信仰が保つて來た記憶――さう言ふものが、漠然と、此人々の心に浮んだもの、と思うてもよいだらう。一家の中にも、喜六郎君などは、暫時ながら教へもし、聽きもした仲だから、外の族人よりは、この咄のとほりもよいだらう。
どんな不思議よりも、我々の、山越しの彌陀を持つやうになつた過去の因縁ほど、不思議なものはまづ少い。誰ひとり説き明すことなしに過ぎて來た畫因が、爲恭の繪を借りて、ゑとき[#「ゑとき」に傍点]を促すやうに現れて來たものではないだらうか。そんな氣がする。
私はかういふ方へ不思議感を導く。集古館の山越しの阿彌陀像が、一つの不思議を呼び起したといふよりも、あの彌陀來迎圖を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、日本人が持つて來た神祕感の源頭が、震火の動搖に刺激せられて、目立つて來たといふ方が、ほんたうらしい。
なぜこの特殊な彌陀像が、我々の國の藝術遺産として殘る樣になつたか、其解き棄てになつた不審が、いつまでも、民族の宗教心・審美觀などゝいへば大げさだが、何かのきつかけには、駭然として目を覺ます、さう謂つたあり樣に、おかれてあつたのではないか。だから事に觸れて、思ひがけなく出て來るのである。さう思へば、集古館の不思議どころでなく、以前には、もつと屡、さう言ふ宗教心を衝激したことがあつたやうである。手近いところでは、私の別にものした中將姫の物語の出生なども、新しい事は新しいが、一つの適例と言ふ點では、疑ひもなく、新しい一つの例を作つた訣なのである。
だが其後、をり/\の感じといふものがあつて、これを書くやうになつた動機の、私どもの意識の上に出なかつた部分が、可なり深く潛んでゐさうな事に氣がついて來た。それが段々、姿を見せて來て、何かおもしろをかしげにもあり、氣味のわるい處もあつたりして、私だけにとゞまる分解だけでも、試みておきたくなつたのである。今、この物語の訂正をして居て、ひよつと、かう言ふ場合には、それが出來るのかも知れぬといふ氣がした。――其だけの理由で、しかも、かう書いてゐることが、果してぴつたり、自分の心の、深く、重たく折り重つた層を、からり/\と跳ねのけて、はつきり單純な姿にして見せるか、どうかもそれは訣らぬのである。
日本人總體の精神分析の一部に當ることをする樣な事になるかも知れぬ。だが決して、私自身の精神を、分析しようなどゝは思うても居ぬし、又そんな演繹式な結果なら、して見ぬ先から訣つてゐるやうな氣もするのだから、一向して見るだけの氣のりもせなんだのである。
私の物語なども、謂はゞ、一つの山越しの彌陀をめぐる小説、といつてもよい作物なのである。私にはどうも、氣の多い癖に、又一つ事に執する癖がありすぎるやうである。だが、さう言うてはうそ[#「うそ」に傍点]になる。何事にも飽き易く、物事を遂げたことのない人間なのだけれど、要するに努力感なしに何時までも、ずる/\べつたりに、くつゝいて離れぬといふ、ふみきりがわるいと言はうか、未練不覺の人間といはうか、ともかく時には、驚くばかり一つ事に、かゝはつてゐる。旅行なども、これでわりにする方の部に入るらしいが、一つ地方にばかり行く癖があつて、今までに費した日數と、入費をかければ、凡日本の奧在家・島陰の村々までも、あらかたは歩いてゐる筈である。それ[#「それ」に傍点]がさうなつて居ぬのは、出たとこ勝負に物をするといふ思慮の淺さと、前以てものを考へることを、大儀に思ふところから來るのは勿論だが、どうも一つ事から、容易に、氣分の離れぬと言ふ性分が、もと[#「もと」に傍点]になつてゐる樣である。
さて、今覺えてゐる所では、私の中將姫の事を書き出したのは、「神の嫁」といふ短篇未完のものがはじめである。此は大正十年時分に、ほんの百行足らずの分量を書いたきり、そのまゝになつてゐる。が、横佩垣内の大臣家の姫の失踪事件を書かうとして、尻きれとんぼうになつた。その時の構圖は、凡けろりと忘れたやうなあり樣だが、藕絲曼陀羅には、結びつけようとはしては居なかつたのではないかと思ふ。
その後もどうかすると、之を書きつがうとするのか、出直して見ようと言ふのか、ともかくもいろ/\な發足點を作つて、書きかけたものが、幾つかあつた。さうして、今度のゑぢぷと[#「ゑぢぷと」に傍線]もどきの本が、最後に出て來たのである。別に、書かねばならぬと言ふほどの動機があつたとも、今では考へ浮ばぬが、何でも、少し興が浮びかけて居たといふのが、何とも名状の出來ぬ、こぐらかつたやうな夢をある朝見た。さうしてこれが書いて見たかつたのだ。書いてゐる中に、夢の中の自分の身が、いつか、中將姫の上になつてゐたのであつた。だから私から言へば、よほど易い路へ逃げこんだやうな氣が、今におきしてゐる。ところが、亡くなつた森田武彦君といふ人の奬めで、俄かに情熱らしいものが出て來て、年の暮れに箱根、年あけて伊豆大仁などに籠つて書いたのが、大部分であつた。はじめは、此書き物の脇役になる滋賀津彦に絡んだ部分が、日本の「死者の書」見たやうなところがあるので、これへ、聯想を誘ふ爲に、「穆天子傳」の一部を書き出しに添へて出した。さうして表題を少しひねつてつけて見た。かうすると、倭・漢・洋の死者の書の趣きが重つて來る樣で、自分だけには、氣がよかつたのである。
さうする事が亦、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の爲の罪障消滅の營みにもあたり、供養にもなるといふ樣な氣がしてゐたのである。書いてゐる内の相當な時間、その間に一つも、心に浮ばなんだ事で、出來上つて後、段々あり/\と思ひ出されて來た色々の事。まるで、精神分析に關聯した事のやうでもあるが、潛在した知識を扱ふのだから、其とは別だらう。が元々、覺めてゐて、こんな白日夢を濫書するのは、ある感情が潛在してゐるからだ、と言はれゝば、相當病心理研究の材料になるかもしれぬ。が、私のする
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