事も、今は消え方になつてゐる。
そんなに遠くは行かぬ様に見えた「山ごもり」「野あそび」にも、一部はやはり、一[#(个)]処に集り、物忌みするばかりでなく、我が里遥かに離れて、短い日数の旅をすると謂ふ意味も含まつて居たのである。かう言ふ「女の旅」の日の、以前はあつたのが、今はもう、極めて微かな遺風になつてしまつたのである。
併し日本の近代の物語の上では、此仄かな記憶がとりあげられて、出来れば明らかにしようと言ふ心が、よほど大きくひろがつて出て来て居る。旅路の女の数々の辛苦の物語が、これである。尋ね求める人に廻りあつても、其とは知らぬあはれな筋立て[#「筋立て」に傍点]を含むことが、此「女の旅」の物語の条件に備つてしまうたやうである。
女が、盲目でなければ、尋ねる人の方がさうであつたり、両眼すゞやかであつても行きちがひ、尋ねあてゝ居ながら心づかずにゐたりする。何やら我々には想像も出来ぬ理由があつて、日を祀る修道人が、目眩《メクルメ》く光りに馴れて、現《ウツ》し世の明を失つたと言ふ風の考へ方があつたものではないか知らん。
私どもの書いた物語にも、彼岸中日の入り日を拝んで居た郎女が、何時か自《オノヅカ》ら遠旅におびかれ出る形が出て居るのに気づいて、思ひがけぬ事の驚きを、此ごろ新にしたところである。
山越しの阿弥陀像の残るものは、新旧を数へれば、芸術上の逸品と見られるものだけでも、相当の数にはなるだらう。が、悉く所伝通り、凡慧心僧都以後の物ばかりと思はれて、優れた作もありながら、何となく、気品や、風格において高い所が欠けてゐるやうに感じられる。唯如何にも、空想に富んだ点は懐しいと言へるものが多い。だが、脇立ちその他の聖衆の配置や、恰好に、宗教画につきものゝ俗めいた所がないではないのが寂しい。何と言つても、金戒光明寺のは、伝来正しいらしいだけに、他の山越し像を圧する品格がある。其でも尚、小品だけに小品としての不自由らしさがあつて、彫刻に見るやうな堅い線が出て来てゐる。両手の親指・人さし指に五色の糸らしいものが纏はれてゐる。此は所謂「善の綱」に当るもので、此図の極めて実用式な目的で、描かれたことが思はれる。唯この両手の指から、此画の美しさが、俄かに陥落してしまふ気がする。其ほど救ひ難い功利性を示してゐる。此図の上に押した色紙に「弟子天台僧源信。正暦甲午歳冬十二月……」と題して七言律一首が続けられてゐる。其中に「……光芒忽自[#二]眉間[#一]照。音楽新発耳界驚。永別[#二]故山[#一]秋月送。遥望[#二]浄土[#一]夜雲迎」の句がある。故山と言ふのは、浄土を斥してゐるものと思へるが、尚意の重複するものが示されて、慧心院の故郷、二上山の麓を言うてゐることにもなりさうだ。
此図の出来た動機が、此詩に示されてゐるのだらうから、我々はもつと、「故山」に執して考へてよいだらう。浄土を言ひ乍ら同時に、大和当麻を思うてゐると見てさし支へはない。此図は唯上の題詞から源信僧都の作と見るのであるが、画風からして、一条天皇代の物とすることは、疑はれて来てゐる。さすれば色紙も、慧心作を後に録したもの、と見る外はないやうだ。
一体、山越し阿弥陀像は比叡の横川《ヨガハ》で、僧都自ら感得したものと伝へられてゐる。真作の存せぬ以上、この伝へも信じることはむつかしいが、まづ[#「まづ」に傍点]凡さう言ふ事のありさうな前後の事情である。図は真作でなくとも、詩句は、尚僧都自身の心を思はせてゐるといふことは出来る。横川において感得した相好とすれば、三尊仏の背景に当るものは叡山東方の空であり、又琵琶の湖が予想せられてゐるもの、と見てよいだらう。聖衆来迎図以来背景の大和絵風な構想が、すべてさう言ふ意図を持つてゐるのだから。併し若し更に、慧心院真作の山越し図があり、又此が僧都作であつたとすれば、こんなことも謂へぬか知らん。この山の端と、金色の三尊の後に当る空と、漣とを想像せしめる背景は、実はさうではなかつた。
禅林寺のは、製作動機から見れば、稍後出を思はせる発展がある。併し画風から見て、金戒光明寺のよりも、幾分古いものと、凡判断せられて居る。さすれば両者とも、各今少し先出の画像があり、其型の上に出て来たものなることが想像出来る。此方は、金戒光明寺の図様が固定する一方、その以前に既に変化を生じて居たものゝ分出と見ることが出来る。但中尊の相好は、金戒光明寺のよりも、粗朴であり、而も線の柔軟はあるが、脇士・梵天・帝釈・四天王等の配置が浄土曼陀羅風といへば謂へるが、後代風の感じを湛へてゐる。其を除けると、中尊の態様、殊に山の端に出た、胸臆のづゝしりした重さは如何にも感覚を通して受けた、弥陀らしさが十分に出てゐて、金戒光明寺の作りつけた様なのとは違ふ。其に山の姿もよい。若し脇士を仮りに消して想像
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