といふことは、凡考へてゐてよからう。
其に今一つ、既に述べた女の野遊び・山籠りの風である。此は専ら、五月の早処女《サヲトメ》となる者たちの予めする物忌みと、われ人ともに考へて来たものである。だが、初めにも述べた様に、一処に留らず遊歴するやうな形をとることすらあるのを見ると、物忌みだけにするものではなかつたのであらう。一方にかうした日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《ヒカゲ》を追ふ風の、早く埋没した俤を、ほのか乍ら窺はせてゐるといふものである。
昔から語義不明のまゝ、訣つた様な風ですまされて来た「かげのわづらひ」と謂つた離魂病なども、日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《ヒカゲ》を追うてあくがれ歩く女の生活の一面の長い観察をして来た社会で言ひ出した語ではないか。其でなくては、此病気は、陰影を亡くするといふ意味でもなく、「わが身は陰となりにけり」の実体を失ふ程痩せると言ふことでもない。だからなぜさう呼び習したか、此意味ならではわからぬことになる。
比叡坂本側の花摘《ハナツミ》の社《ヤシロ》は、色々の伝へのあるところだが、里の女たちがこゝまで登つて花を摘み、序にこの祠にも奉つたことは、確かである。而も山籠りして花をつむと言ふことは、必しも一つの隠れどころにぢつとして居ることではなく、てんでに思ひ/\の峰谷を渉つてあるくこともあつた、たゞの物忌みの為ばかりでもないやうだ。女たちの馳けまはる範囲が、野か、山の中に限られて、里つゞきの野道・田の畦などを廻らぬところから、伝へなかつたまでゞあらう。日の伴の様な自由な野行き山行きは、まだ土地が、幾つとも知らぬ郡村に地割りせられぬ以前からの風であつたのである。如何ほど細かに、村境・字境がきまるやうになつても、春の一日を馳け廻る女人にとつては、なか/\太古の土地を歩くと、同じ気持ちは抜けきらなかつたであらう。それ故と言ふより、さうした習俗だけが、時代を超えて残つて居た訣なのである。
此やうに、幾百年とも知れぬ昔から、日を逐うて西に走せ、終に西山・西海の雲居に沈むに到つて、之を礼拝して見送つたわが国の韋提希夫人が、幾万人あつたやら、想像に能はぬ、永い昔である。此風が仏者の説くところに習合せられ、新しい衣を装ふに到ると、其処にわが国での日想観の様式は現れて来ねばならぬ訣である。
日想観の内容が分化して、四天王寺専有の風と見
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