そのまゝ消えて行つたのである。その消滅の径路において、彼岸の落日を拝む風と、落日を追うて海中に没入することゝ、また少くとも彼岸でなくとも、法悦は遂げられるといふ入水死の風習とに岐れて行つたのである。
こゝで山越し像に到る間を、少し脇路に踏み入ることにしたい。
さて、此日東の大きなる古国には、日を拝む信仰が、深く行はれてゐた。今は日輪を拝する人々も、皆ある種の概念化した日を考へてゐるやうだが、昔の人は、もつと切実な心から、日の神を拝んで居た。
宮廷におかせられては、御代々々の尊い御方に、近侍した舎人たちが、その御宇々々の聖蹟を伝へ、その御代々々の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播した。此が、日奉部《ヒマツリベ》(又、日祀部)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲の事については、既に前年、柳田先生が注意してゐられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ[#「ひおきべ」に傍線](又、ひき[#「ひき」に傍線]・へき[#「へき」に傍線])と同じか、違ふ所があるか、明らかでないが、名称近くて違ふから見れば、全く同じものとも言はれぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おく[#「おく」に傍点]は後代算盤の上で、ある数にあたる珠を定置することになつてゐるが、大体同じ様な意義に、古くから用ゐてゐる。源為憲の「口遊《クイウ》」に、「術に曰はく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し……」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などゝある。此は算盤を以てする卜法である。置く[#「置く」に傍線]が日を計ることに関聯してゐることは、略疑ひはないやうである。たゞおく[#「おく」に傍点]なる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によつて、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示してゐるのは明らかである。
此様に、日を計つてする卜法が、信仰から遊離するまでには、長い過程を経て来てゐるだらうが、日神に対する特殊な信仰の表現のあつたのは疑はれぬ。其が、今日の我々にとつて、不思議なものであつても、其を否む訣には行かぬ。既に述べた「日《ヒ》の伴《トモ》」のなつかしい女風俗なども、日置法と関聯する所はないだらうが、日祀りの信仰と離れては説かれぬものだ
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