山の音を聴きながら
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)湍《タギ》ちも

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)茶臼|原《バル》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ようべ[#「ようべ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とぼ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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ようべ[#「ようべ」に傍点]は初めて、澄んだ空を見た。宇都宮辺と思はれる空高く、頻りに稲光りがする。もう十分秋になつて居るのに、虫一疋鳴かない。小山の上の大きな石に腰をおろして居ると、冷さが、身に沁みて来るやうだ。物音一つしない山の中に、幽かに断え間なく響いて居るのは、夜鷹が谷の向うに居るのだらう。八時近くなつて、月の光りが明るくさして来た。八月末になつて、豪雨が三度も来て、山は急にひつそりしてしまつた。ま昼間、目の下の川湯に浸つて女や子どもなどが物言ふ声も、しんかんと響くくらゐである。山の湯宿の夜といふものは、何かみじめらしい穢さを感じるものだが、こゝは、一向さつぱりと静まつて居る。茶臼岳や、朝日岳の山襞がはつきり見えて来た。目の前の爪先上りが、一気に小半道も続いて居て、硫黄精煉所まで行つてゐる。さう言へば今も、二人連れの若い男が「お晩でございます」と声をかけて登つて行つた。其がもう、あんな高い処でほの暗くちらついて居る。
私は、月の光りの照つて居る石高道を歩いた。十四五の頃、初旅に出て以来、ひとりこんな晩に歩いた事が、幾度あつたか知れない。近年は旅をしても、多くは道連れが誰かある。
芭蕉などでも、治郎兵衛を伴にしたり、曾良を連れたりして、ひとり旅の味は、わりに身に沁みなかつたらう。こんな事を考へたこともあるが、思ふとさうばかりも言へない。気持ちの遠い人と歩いて居ると、心は何となくうはついて[#「うはついて」に傍点]居るものだが、自分の身に近い者が一処だと、二つの心が一つ事を感じてゐると言ふのか、自分の心が連れの心に乗りかゝつて了ふと言ふのか、しんみりした気持ちを持ち合つて行くものである。旅の心が伴ふ危険や煩ひをすつかり、同行者が負担してくれるだけでも、尖つた寂しさではなく、何かかう、円かな寂けさと謂つたものが、心に漂うて居ることが多い。
けれども、芭蕉のやうなえらい人は別だ。我々はやつぱり連れのある旅は、のどかになるに過ぎる。広い野原に立ち停つて、もう旅をやめてしまはうとたまらなくなつて来る気持ちは、苦しいけれども、旅が身に迫つて感ぜられる。さうした心は、此頃、あまり起らなくなつた。よくさうした心持ちは、まう一つ、やゝ大きな暈のやうなものを伴つて起つて来がちであつた。人生に倦んだとでも言へるやうな心持ちである。旅だから、よしも還り入る家はあるが、此が生涯だつたらどうする。こんな事を考へるよりも先に、かう言ふ形をとつて心持ちの上におつかぶさつて来る。旅に出て謂はれなく死んでしまふ人の気が訣る。出来心と人は言ふ。又、いはれなき謂はれを求めようとする理づめの世間になつて来たが、旅の切ないある気持ちは、少数の人とだけは咄しあへさうな気がする。出来心でさへもない。やつぱり旅のみが持たせる負担といふか、たまらない倦さが、人生の倦さに一致してしまふからである。根本は[#「根本は」に傍点]、旅のつらさから来るには違ひない。殊に大きな山を歩いて居る時が、一番この気まぐれと謂へば言へる気分に這入り易い。さうした引き続いた気分の後、見わたしのきく場処などに出ると、急に人間感を飛躍してしまふやうな事になるのではないかと思ふ。
併し、あゝした切ない気持ちをぢつと持つて歩いて居ると言ふことは、此上ない張りつめたものである。感傷と謂へば感傷ではあるが、みじめながら、小いながらひとりの気持ちを、謙虚に、而も張り裂けるやうに持ちながら、とぼ/\と歩いて居るのだ。
木の葉のさやぎも、草原の輝きも、水の湍《タギ》ちも、家と家とのたゝずまひも、道の迂《ウネ》りも、畠や田の交錯して居るさまも、一つ/\心にしみ/″\ととりこまれて行く。
私が旅をしても、この頃、世間の所謂低山ばかりを歩いて居るのは、一つはさうしたやるせないものから身をかはさうと言ふ気があるに違ひない
國木田氏の書き物に執した人々の間には、「忘れ得ぬ人々」と言ふ短篇が、よく話題になる。あれは、題目がまづ、人々の聯想を活溌にはたらかす。読む以前既に、読者の書く小説が、めい/\の心を唆るのである。其から、その小説と、獨歩の書いてゐることゝが、方向を一つにするものにあふと満足を感じる。ところが、國木田氏の一つの新しさでもあり、真の新しさではないが、――反語的な考へ方・物言ひが、聴く人々の心を、うつちやる。さう謂
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