山家に起る筈がなかつたのである。
日本の国のまだ出来ぬ村々の君々の時代から、歴史物語は、神だけに語る資格が考へられてゐた。神が現れて、自身には人の口を託《カ》りて語り出す叙事詩《モノガタリ》は、必その村その国の歴史と信じられて来た。国々の語部《カタリベ》の昔から、国邑の神人の淪落して、祝言職《ホカヒ》となり、陰陽師《オンミヤウジ》の配下となつて、唱門師《シヨモジン》・千秋万歳《センズマンザイ》・猿楽の類になり降つても、其筋がゝつた物語は、神の口移しの歴史で、今語られてゐる土地の歴史と言ふ考へ方は、忘れられきつては居なかつた。盲僧や盲女《ゴゼ》の、神寄せの後に語り出す問はず語り[#「問はず語り」に傍点]の文句も、さうした心持ちから受け入れられたのである。京・鎌倉の公家・武家の物語も、結局は、山在所の由来として聴かれたのも道理である。だから此|入訣《イリワケ》も呑み込まないで、むやみと奥在所の由緒書きを、故意から出た山人のほら話と、きめてかゝつてはならないのである。

     二 常世神迎へ

こんな話は、山家ばかりで言ふ事ではなかつた。京一|巡《ジユン》、「梯子や打ち盤」触り売つて戻つ
前へ 次へ
全12ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング