三郷巷談
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)万代《モズ》八幡宮

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)泉北郡|百舌鳥《モズ》村大字百舌鳥

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(例)だん/\
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       一 もおずしやうじん[#「もおずしやうじん」に傍線]
泉北郡|百舌鳥《モズ》村大字百舌鳥では、色々よそ村と違つた風習を伝へてゐた。其が今では、だん/\平凡化して来た。此処にいふもおずしやうじん[#「もおずしやうじん」に傍線]の如きは、殊に名高いものになつて居た。
此村には万代《モズ》八幡宮といふ、堺大阪あたりに聞えた宮がある。其氏子は、正月三个日は、たとひどんな事があつても、肉食をせないで、物忌《モノイ》みにこもつた様に、慎んでゐなければならぬので、堺あたり(堺市へ廿町)へ奉公に出てゐるものは、三个日は、必在処に帰つて、ひきこもつて精進をする。此村から出る奉公人は、目見えの際、きつと正月三个日藪入りの事を条件として、もち出す事になつてゐた。処が、村へ戻れぬ様な事でもあると、主家にゐて、精進を厳かに保つてゐる。労働者なんかで、遠方へ出稼ぎに行つてるものも、やはり、所謂其もおずしやうじん[#「もおずしやうじん」に傍線]を実行したものだ。でなければ、冥罰によつて、かつたい[#「かつたい」に傍線](癩病)になる、といふ信仰を持つてゐたのである。
もおずしやうじん[#「もおずしやうじん」に傍線]は、三个日は無論厳かに実行するのだが、其数日前から、既に、そろ/\始められるので、年内に煤掃《スソハ》きをすまして、餅を搗くと、すつかり精進に入る。来客があつても、もおずしやうじん[#「もおずしやうじん」に傍線]のなかまうちである村の人は、なるべくは、座敷《オイヘ》にも上げまいとする。縁台を庭に持出して、其に客を居させて、大抵の応待は、其処ですましてしまふ。
三个日の間は、村人以外の者と、一つ火で煮炊きしたものを食はない。それから、此間は、男女のかたらひは絶対に禁ぜられてゐるので、もし犯す事もあつてはといふので、一家みな、一つ処にあつまつて寝る。そして、三日の夜に入つて、はじめて精進を落す事になつてゐる。家によると、よそ村から年賀に来る客の為に、酒肴を用意して置いて、家族は一切別室に引籠つてゐて、客に会はない。そして、客が勝手に、酒肴を喰べ酔うて帰るに任せてあつた、とも聞いてゐる。近年は徴兵制度の為に、軍隊に居る者が三个日の間に肉食をしても、別に異状のないことやら、どだい、だん/\不信者の増した為に、厳重には行はれない様になつたさうである。
此風習の起原は、両様に説明せられてゐる。一つは、此村はかつたい[#「かつたい」に傍線]が非常に多かつたのを、八幡様が救つて下さつた。其時の誓によつて、正月三个日は精進潔斎をするのだといふ。今一つは、ある時、弘法大師が此村に来られた処が、村は非常に水が悪かつたので、水をよくして下さつた。其時村人は、水を清くして貰ふ代りに、正月三个日は精進潔斎をいたしますと誓つた。其時、証拠人として立たれたのが、万代八幡様であつたとも伝へて居る。
       二 あはしま
どこともに大同小異の話を伝へてゐるあはしま[#「あはしま」に傍線]伝説を、とりたてゝ言ふほどの事もあるまいが、根源の淡島明神に近いだけに、紀州から大阪へかけて拡つてゐる形式を書く。
加太(紀州)の淡島明神は女体で、住吉の明神の奥様でおありなされた。処が、白血長血《シラチナガチ》(しらちながし[#「しらちながし」に傍線]などゝもいふ)をわづらはれたので、住吉明神は穢れを嫌うて表門の扉を一枚はづして、淡島明神と神楽太鼓とを其に乗せて、前の海に流された。其扉の船が、加太に漂着したので、其女神を淡島明神と崇め奉つたのだ。其で、住吉の社では今におき、表門の扉の片方と神楽太鼓とがないと言ふ。此は淡島と蛭子とを一つにした様に思はれる。しかし或は、月読命と須佐之男命と形式に相通ずる所がある様に、淡島・蛭子が素質は一つである事を、暗示するものかも知れない。
処で、此処に、も一つおもしろい事がある。其は、住吉につゞく堺の朝日明神の社に就ても、同様形式を伝へてゐる事である。白血長血、扉の件は同じで、海に放たれたのを朝日明神様であるといふ。神楽太鼓の件は、此方の話にはあるかないか断言しかねる。七月三十日(昔は大祓の日)には、堺の宿院の御旅所へ住吉の神輿の渡御がある。其をり、神輿が堺の町に這入ると、本道の紀州海道は行かないで、わざ/\海岸を迂回して、御旅所に達する。此は、神明の社が紀州海道に面してゐる(宿院行宮も同様海道に面し、神明社の南十町ほどに在る)ので、神明様の怨まれるのを恐れて、避けられるのだと言ふ。此日、朝日明神の社では、住吉の神輿が新大和川を渡つて、堺の町に這入られるから、宿院に着かれるまで、太鼓をうちつゞけに打つ事になつてゐる。此は、神明様の嫉妬・怨恨の情を表象するものだと伝へる。
       三 南《ナ》ぬけの御名号《ミミヤウガウ》
木津には、七軒の旧家があつた。願泉寺門徒が、石山本願寺の為に死に身になつて、織田勢と戦つた功に依つて、各顕如上人から苗字を授けられたと伝へ、雲雀のやうに、空まで舞ひ上つて、物見をしたので雲雀《ヒバル》、上人紀州落ちの手引きをして、海への降り口を教へた処から折口《ヲリクチ》、其節、莚帆を前にして、匿して遁げたのが莚帆《ミシロボ》だなどゝ云ふ話を聞かされてゐた。
其中の雲雀氏は、代々の通称が五郎左衛門で、其苗字の外に、六字の名号を布に書いたのを頂戴して、永く持ち伝へ、家に法事のある毎に、人に拝ませてゐたが、此御名号には唯「無阿弥陀仏」の五字だけしか無かつた。何代目かの五郎左衛門が、放蕩から此宝物を質屋の庫に預け、後に此を受出して見ると、南の一字が消えて了うてゐたので「南《ナ》ぬけの御名号《ミミヤウガウ》」と称して、恐しく神聖な物と考へられて居た。近年はどういふ折にも見せぬ様になつた。
       四 算勘の名人
此は何処からどうして来た人とも、今以て判然せぬが、安政の大地震の時の事である。大阪では地震と共に、小さな海嘯《ツナミ》があつて、木津川口の泊り船は半里以上も、狭い水路を上手へ、難波村|深里《フカリ》の加賀の屋敷前まで、押し流されて来た時の話である。木津の唯泉寺《ユヰセンジ》(大谷派)の本堂が曲つて、棟の上で一尺五寸も傾いた。其節誰かゞ十露盤《ソロバン》の名人と云ふ人を一人連れて来て、此を見せると、即坐に、此堂を真直ぐにしよう、と請合うた。さて、自分が堂の中で為事をしてゐる間は、一人も境内に居てはならぬ、と戒めて置いて、自分一人中に入り、門を鎖《シ》め、本堂の蔀《シトミ》までも下して、堂内に静坐し、十露盤を控へて、ぱち/\と数を詰《ツ》めて行つたさうだ。すると、段々、其が熟して来たと見えて、外から見てゐると、ぎい/\と音がして、棟も柱も真直ぐに起き直つた、と云ふ事である。現に、此を見て居つたといふ人が、何人か今も居る。
       五 樽入れ・棒はな
木津では若《ワカ》い衆《シユ》の団体たる若中《ワカナカ》の上に、兄若《アニワカ》い衆《シユ》と云ふ者があつた。若中《ワカナカ》に居た時から人望があつた者が、若い衆の胆煎《キモイリ》をするので、其等の家が、年番に「宿」と称して、若い衆の集会所になつたものであつた。
此|兄《アニ》若い衆は、すべて、若中を心の儘に左右し、随分威張つてゐた。祭りが近くなると、町々の「宿」の表には、四尺四方ぐらゐな四角の枠の中に、一本隔てを入れたのに、大きな御神燈を二張《ふたはり》括り附けて、軒に懸けてゐた。だいがく[#「だいがく」に傍線]に出る揃への衣裳の浴衣地は、此処で分けてくれた事を覚えてゐる。此処は若中の策源地なので、余程こはもてのしたものであつた。
ばうた[#「ばうた」に傍線]の哀訴も、此処へ提出せられる事が多かつた。町内の豪家に婚礼があると、此処に集る若い衆が、おめでたのある家の表へ空樽を積み込む。さうして、一挺幾らづゝかの勘定で、祝儀の金を乞ふ。其が憎まれてゐる家である時は、空樽の山を築き、驚くべき入費を掛けさせて、痛快とする。
若しまた、若中或は兄若い衆の怨を買うた節には大変で、更に、ばゞかけ[#「ばゞかけ」に傍線]と称する野臭の漲つた挙に出る。其は、肥桶《コエタゴ》を宴席に担ぎ込んで、畳の上にぶちまけるので、其汚物の中には蛙・蟇などが数多く為込んであつて、其がぴよん/\跳ね廻つて、婚礼の席をめちや/\にする。十四五年前、木津から半里《ハンミチ》ばかり隔たつた津守新田《ツモリシンデン》の某家から、他村へ輿入れの夜、嫁御寮を始め一同、十三間堀《ジフサンゲンボリ》といふ川を下つて了うた処が、土橋の上に隠れてゐた津守の若い衆が、其船目掛けて、肥桶をぶちまけたので、急に、婚礼の日取りを換へた、と云ふ話もある。
若中の権威は、啻に婚礼の晩に発揮するばかりではなかつた。祭りの際には、兼ねて憎んでゐる家に、棒はな[#「棒はな」に傍線]といふ事をする。此は、だいがく[#「だいがく」に傍線]の舁《カ》き棒を其家の戸なり壁なりに撞き当てる方法で、何しろ恐しい重量を棒鼻に集中して打ち当てるのだから、堪《タマ》つたものではなかつたさうである。
       六 執念の鬼灯《ホヽヅキ》
「五大力恋緘《ゴダイリキコヒノフウジメ》」に哀れな物語りを伝へた、曾根崎新地の菊野の殺された茶屋は、今年五十六になる私の母が、子供の頃までは残つて居たさうだ。芝居で見て知るよりも以前から、既に、私等は此話を聞いてゐた。其は曾祖母から口移しの話で、菊野が鬼灯を含んで鳴して居る処へ、源五兵衛(仮名)が来て、斬り殺したと云ふ事で、其執念が残つて、其茶屋の縁《エン》の下には、今でも鬼灯が生えるといふ物語りを、母が其まゝ、私等に聞かせた。子供の時分は、北の新地へさへ行けば、何時でも、菊野のかたみの鬼灯が見られるものと信じて居た。
       七 六部殺し
熊野|八鬼《ヤキ》山の順礼殺しのからくり唄[#「からくり唄」に傍線]に、云ひ知らぬ恐怖を唆《ソヽ》られた心には、この大阪以外には、こんな鬼の住み処も有ることか、と思うてゐたのに、其大阪もとつと[#「とつと」に傍点]のまん中、島の内にも有つたのだとは、此頃始めて、教へ子梶喜一君から聞き知つた。而も、其家の名まで明らかに知れてゐるのは、何だか田園都市の匂ひを感ぜずには居られぬ。
南区三丁目の沖田といふ家は、今はすべて死に絶えて、唯一人残つた老婆が、天王寺辺で寂しく御迎へを待つてゐるといふ。御一新騒ぎの当時、此家へ一夜の宿りを求めた六部があつた。処が、其翌日、彼が立つて行く影も形も見た者が無いのに、其姿は其儘消えて了うた。其後、何処から得た資本ともなく、たんまり[#「たんまり」に傍点]とした金が這入つた模様で、色々の事に手を出し、とん/\拍子で指折りの金持ちになつたが、どうも不思議だ、といふ取沙汰《トリサタ》の最中に、主人が死に、息子が死にして、殆ど枝も幹も残らぬ様に、亡びて了うた。長堀から鰻谷《ウナギダニ》へかけて、沖田の六部殺しと言うて、因果の恐しさを目前に見た様に噂した事であつた。
       八 日向の炭焼き
難波《ナンバ》の土橋《ドバシ》(今の叶橋《カナフバシ》)の西詰に、ヽヽといふ畳屋があつた。此家は古くから、日向に取引先があつたと見えて、土橋の下には、度々日向の炭船が著いてゐたさうである。其炭船が日向へ帰つた後では、きつと行方知れずになる子供が尠からずあつたといふ。此は、畳屋が子供を盗んで、日向へ炭焼きに遣るのだ、といふ評判であつた。其で、私等の子供の頃にも、どうかした折には、土橋の
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