道の紀州海道は行かないで、わざ/\海岸を迂回して、御旅所に達する。此は、神明の社が紀州海道に面してゐる(宿院行宮も同様海道に面し、神明社の南十町ほどに在る)ので、神明様の怨まれるのを恐れて、避けられるのだと言ふ。此日、朝日明神の社では、住吉の神輿が新大和川を渡つて、堺の町に這入られるから、宿院に着かれるまで、太鼓をうちつゞけに打つ事になつてゐる。此は、神明様の嫉妬・怨恨の情を表象するものだと伝へる。
三 南《ナ》ぬけの御名号《ミミヤウガウ》
木津には、七軒の旧家があつた。願泉寺門徒が、石山本願寺の為に死に身になつて、織田勢と戦つた功に依つて、各顕如上人から苗字を授けられたと伝へ、雲雀のやうに、空まで舞ひ上つて、物見をしたので雲雀《ヒバル》、上人紀州落ちの手引きをして、海への降り口を教へた処から折口《ヲリクチ》、其節、莚帆を前にして、匿して遁げたのが莚帆《ミシロボ》だなどゝ云ふ話を聞かされてゐた。
其中の雲雀氏は、代々の通称が五郎左衛門で、其苗字の外に、六字の名号を布に書いたのを頂戴して、永く持ち伝へ、家に法事のある毎に、人に拝ませてゐたが、此御名号には唯「無阿弥陀仏」の五字だけしか無かつた。何代目かの五郎左衛門が、放蕩から此宝物を質屋の庫に預け、後に此を受出して見ると、南の一字が消えて了うてゐたので「南《ナ》ぬけの御名号《ミミヤウガウ》」と称して、恐しく神聖な物と考へられて居た。近年はどういふ折にも見せぬ様になつた。
四 算勘の名人
此は何処からどうして来た人とも、今以て判然せぬが、安政の大地震の時の事である。大阪では地震と共に、小さな海嘯《ツナミ》があつて、木津川口の泊り船は半里以上も、狭い水路を上手へ、難波村|深里《フカリ》の加賀の屋敷前まで、押し流されて来た時の話である。木津の唯泉寺《ユヰセンジ》(大谷派)の本堂が曲つて、棟の上で一尺五寸も傾いた。其節誰かゞ十露盤《ソロバン》の名人と云ふ人を一人連れて来て、此を見せると、即坐に、此堂を真直ぐにしよう、と請合うた。さて、自分が堂の中で為事をしてゐる間は、一人も境内に居てはならぬ、と戒めて置いて、自分一人中に入り、門を鎖《シ》め、本堂の蔀《シトミ》までも下して、堂内に静坐し、十露盤を控へて、ぱち/\と数を詰《ツ》めて行つたさうだ。すると、段々、其が熟して来たと見えて、外から見てゐると、ぎ
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