若水の話
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)自《オノ》づ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)北部|国頭《クニガミ》郡

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)秦《ハタ》[#(ノ)]河勝《カハカツ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)行つても/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

ほうっとする程長い白浜の先は、また目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、自《オノ》づと伸《ノ》し上る様になつて、頭の上まで拡がつて来てゐる空だ。其が又、ふり顧《カヘ》ると、地平をくぎる山の外線の、立ち塞つてゐる処まで続いてゐる。四顧俯仰して目に入るものは、此だけである。日が照る程風の吹くほど、寂しい天地であつた。さうした無聊な目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《ミハ》らせる物は、忘れた時分にひよつくりと、波と空との間から生れて来る――誇張なしに――鳥と紛れさうな刳《ク》り舟の姿である。遠目には磯の岩かと思はれる家の屋根が、ひとかたまりづゝ、ぽっつりと置き忘られてゐる。琉球の島々には、行つても/\、こんな島ばかりが多かつた。
我々の血の本筋になつた先祖は、多分かうした島の生活を経て来たものと思はれる。だから、此国土の上の生活が始つても、まだ万葉人《マンネフビト》までは、生の空虚を叫ばなかつた。「つれ/″\」「さう/″\しさ」其が全内容になつてゐた、祖先の生活であつたのだ。こんなのが、人間の一生だと思ひつめて疑はなかつた。又さうした考へで、ちよつと見当の立たない程長い国家以前の、先祖の邑落の生活が続けられて来たのには、大きに謂はれがある。去年も今年も、又来年も、恐らくは死ぬる日まで繰り返される生活が、此だと考へ出した日には、たまるまい。
郵便船さへ月に一度来ぬ勝ちであり、島の木精がまだ一度も、巡査のさあべる[#「さあべる」に傍線]の音を口まねた様な事のない処、巫女《ノロ》や郷巫《ツカサ》などが依然、女君《ジヨクン》の権力を持つてゐる離島《ハナレ》では、どうかすればまだ、さうした古代が遺つてゐる。稀には、那覇の都にゐた為、生き詮《カヒ》なさを知つて、青い顔して戻つて来る若者なども、波と空と沙原との故郷に、寝返りを打つて居ると、いつか屈托など言ふ贅沢な語《ことば》は、けろりと忘れてしまふ。我々の先祖の村住ひも、正に其とほりであつた。村には歴史がなかつた。過去を考へぬ人たちが、来年・再来年を予想した筈はない。先祖の村々で、予め考へる事の出来る時間があるとしたら、作事《サクジ》はじめの初春から穫《ト》り納《イ》れに到る一年の間であつた。昨年以前を意味する「こそ」と言ふ語は、昨日以前を示す「きそ」から、後代分化して来たのであつた。後年《アトヽシ》だから、仮字遣ひはおとゝし[#「おとゝし」に傍線]と、合理論者がきめた一昨年も、ほんとうはさうでない。をとゝし[#「をとゝし」に傍線]の「をと」には、中に介在するものを越した彼方を意味する「をち」と言ふ語が含まれてゐるのだ。去年の向うになつてゐる前年の義で「彼年《ヲチトシ》」である。一つ宛隔てゝ、同じ状態が来ると言ふ考へ方が、邑落生活に稍歴史観が現れかける時になつて、著しく見えて来る。祖父と子が同じ者であり、父と孫との生活は繰り返しであると言ふ信仰のあつた事は、疑ふことの出来ぬ事実だ。ひよつとすると、其頃になつて、暦の考へが此様に進んで来たのかも知れぬ。
去年《コソ》と今年《コトシ》とを対立させて居たのである。其違つた条件で進む二つの年が、常に交替するものとしてゐたと言うても、よさゝうである。此暦法の型で行けば、ことし[#「ことし」に傍線]とをとゝし[#「をとゝし」に傍線]のこそのとし[#「こそのとし」に傍線]は、をとゝし先の年[#「をとゝし先の年」に傍線](万葉)のくり返しである。完全に来年・再来年を表す古語の、出来ずじまひにすんだ古代にも、段々、今年のくり返しは再来年、来年は去年の状態が反覆せられるものとの考へが、出て来てゐたかと思ふ。
其が又、一年の中にも、二つの年の型を入れて来た。国家以後の考へ方と思ふが、一年を二つに分ける風が出来た。此は帰化外人・先住漢人などの信仰伝承が、さうした傾向を助長させたらしい。つまり中元の時期を界にして、年を二つに分ける考へである。第一に「大祓へ」が、六月と十二月の晦日《ツゴモリ》に行はれる様になつたのに目をつけてほしい。遠い海の彼方なる常世《トコヨ》の国に鎮る村の元祖以来の霊の、村へ戻つて来るのが、年改まる春のしるし[#「しるし」に傍線]であつた。
其が後には、仏説を習合して、七月の盂蘭盆を主とする様になつた。だが、其以前から既に、秋の御霊迎《ミタマムカ》へは、本来の春の霊祭《タマヽツ》りに対照して、考へ出されてゐたのであつた。常世神の来訪を忘れて了ふ様になると、春来る御霊《ミタマ》は歳神《トシガミ》・歳徳様《トシトクサマ》など言ふ、日本陰陽道特有の廻り神になつて了うた。さうして肝腎の霊祭りは秋が本式らしくなつた。坊様に、棚経を読んで貰はねば納らぬ、と言つた仏法式の姿をとつて行つた。
極《ゴク》の近代まであつた、不景気の世なほしに、秋に再び門松を立てたり、餅を搗いたりした二度正月の風習は、笑ひ切れない人間苦の現れである。が、此とて由来は古いのである。ことし[#「ことし」に傍線]型の暦はわるかつたから、こそ[#「こそ」に傍線]型の暦で行かうと言ふのである。
だが、其一つ前の暦はことし[#「ことし」に傍線]だけであつた。さう言ふ一年より外に、回顧も予期もなかつた邑落生活の記念が、国家時代まで、又更に近代まで、どういふ有様に残つてゐたかを話したい。

     二

鹿島の言触《コトブ》れも春の予言に歩かなくなり、三島暦の板木も、博物館物になりさうになつて了うた世の中である。神宮司庁の大麻暦《タイマレキ》さへ忘れた様な古暦のくり言《ゴト》も、地震の年をゆり返した様な寂しい春のつれ/″\を、も一つ飜《カヘ》して、常世の国の初だよりの吉兆を言ひ立てる事になるかも知れない。
洋中の孤島に渡らずとも、おなじ「つれ/″\」は、沖縄本島にも充ち満ちてゐる。首里王朝盛時なら、生きながら髯長矯風大主《ヒヂナガユナホシノウフヌシ》とでも、今頃は神名を島人から受けて居さうな、島のわが親友は、島の朋党からけぶたがられて、東京へ出て来た。あんな恩知らずの人々の為に、其でも懲りずに、まだ書いてゐる。先年出版した「孤島苦の琉球」なども、千何百年を所在なく暮した島人の吐息を、一人で一返に吐き出した様な、勝ち方の国の我々をさへ、寂しがらせる書物である。首里宮廷の勢力の強く及んだ島尻・中頭は其でもよかつた。君主の根じろであつた島の北部|国頭《クニガミ》郡には、やはり伝来の「さう/″\しさ」が充ちてゐて、今ではそろ/\はけ口[#「はけ口」に傍点]を探し出してゐる。さうした海岸の村々を歩いて、ぞつとさせられた。孤島苦が人間の姿を仮りて出た様な、いぶせくいたましい老人の倦い眦に遭うた時の気持ちである。山多きが故に山原《ヤンバル》で通つてゐる国頭郡の山中には、新暦の正月に赤い桜が咲くさうである。私は二度まで国頭の地を踏んだが、いつも東京でさへ暑い盛りの時ばかりであつた。一度は、緋桜の花の、熱帯性の濶葉《ヒロバ》の緑の木の間から、あはれに匂うてゐる様が見たいとは、思うたばかりで縁がない。其桜は日本旅《ヤマトタビ》の家づとに、昔誰かゞ持ち還つたものか。元々島の根生ひであつたか。其側の学者には、既に訣つてゐる事かも知れぬ。
加納諸平の「鰒玉集」には、島の貴族の作つたやまと歌[#「やまと歌」に傍線]が載つてゐる。薩摩の八田氏などから供給せられた材料であらう。其頃からもう、伊勢物語をなぞつた様な、島の貴族の自叙伝も出来てゐた。源氏や古今や万葉も、手に触れた人は尠くなかつた。国の古蹟・家の由緒を語る碑文《ヒノムン》の平仮名が、正確で弾力のない御家流である如く、島人の倭文・倭歌は、つれ/″\の結晶かと思はれる程、類型の重くるしさを湛へてゐる。島の孤島苦の目醒めには、島津氏などのやり方が、大分原因になつてゐる。やまと人と言へば薩摩者。こはらしい人ばかりの様に想像せられても、やつぱり何か心惹くものがあつたらう。
おもろ[#「おもろ」に傍線]草紙の古語にも、生きた首里の内裏語《ダイリコトバ》にも、やまと[#「やまと」に傍線]の古い語が、到る処に交りこんでゐた。首里宮廷の巫女の伝へた古詞には、島渡りして来た山城の都の御曹司《オンゾウシ》の俤が語られた。島々は島々で、遠い海を越えて来たと言ふ何もりの神[#「何もりの神」に傍線]なる平家の公達《キンダチ》を思はせる名の神が多かつた。弓張月以前にも、舜天王の父を、此山城の都から来た貴公子にする考への動いてゐたことは察せられる。古く岐れた一つ流れの民族であつた事は忘れても、又かうした新しい因縁を考へねばならぬ程、深い血筋の自覚があつたのである。尤、孤島苦が生み出したいぶせい事大主義からも、さうはなつたであらうが。問題は其よりも根本的のものであつた。
島の木立ちに、仮令《たとひ》忘れた様にでも、桜の花がまじり咲いた。かうした現実が、歌や物語や、江戸貢進使の上り・下りの海道談に、夢想を走《ハ》せ勝ちのやまと[#「やまと」に傍線]の、茲も血を承けた、強い証拠らしい気を起させたであらう。問ひつめれば、理にもならぬはかない花の姿が、気持ちの上には実証的な力を以て迫つたでもあらう。歌に詠まれたましら[#「ましら」に傍線]の影は見られずとも、妻恋ふる鹿は、現に居た。西の海中《トナカ》の離島《ハナレ》の一つには「かひよ/\」の声も聞かれる。島にも、優美な歌枕がある。かうしたことが、なんぼう張り合ひになつたことか。やまと[#「やまと」に傍線]の人の誇り書きにする「ものゝあはれ」は島人も知つてゐる。かうした事からこみあげて来る親しみ心は、島人の所謂「他府県人」なる我々にも、凡《およそ》想像はつく。
此頃になつて、又一つの島人の誇りが殖えて来た。鮎と言ふ魚は、日本の版図以外には棲まぬものである。其南部だけに、此魚の溯る川ある樺太も、だから、日本の領土になつた。かう言ふ噂が伝つて来たところが、沖縄にも唯一个処ながら鮎の棲む川があつた。宿命的にいや、血族的にやまと人[#「やまと人」に傍線]たる証拠に違ひない。かうした考へが起るに連れて、支那と薩摩を両天秤にかけた頃のくすんだ気持ちは、段々とり払はれて行く様である。
其の鮎の獲れる場処と言ふのは、国頭《クニガミ》海道の難処、源河の里の水辺である。里の処女の姿や、情《ナサケ》を謡ふ事が命の琉球の民謡には、村の若者のとりとめぬやるせなさの沁み出たものが多い。

     三

東京へ引き出しても、不覚《オクレ》はとらなかつた筈の琉球学者末吉安恭さんは、島の旧伝承の生きた大きな庫であつた。さうして、私たちが、幾らも其知識を惹き出さない間に、那覇の入り江から彼岸浄土《ニライカナイ》の大主神《ウフヌシ》が呼びとつて了うた。
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源河奔川《ヂンカハイカア》や、水か。湯か。潮《ウシユ》か。
源河|女童《ミヤラビ》の 御《ウ》すぢ[#「すぢ」に傍線]どころ(源河節)
[#ここで字下げ終わり]
此源河節に対する疑問などは、私にとつて、此学者の記念《カタミ》になつた。
私は其前年かに、宮古島から戻つて来て、今大阪外国語学校に居るにこらい・ねふすきい[#「にこらい・ねふすきい」に傍線]さんから、一つの好意に充ちた抗議を受けてゐた。私の旧著万葉集辞典と言ふのは、今では人に噂せられるさへ、肩身の窄まる思ひのする恥しい本である。其中に「変若水《ヲチミヅ》」と言
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