・いつの[#「いつの」に傍線]など使ふのは、天子及び神の行為・意志の威力を感じての語だ。
ちはやぶる[#「ちはやぶる」に傍線]の語原は「いちはやぶる」であるが、皇威の畏しき力をふるまふ事になる。此をうちはやぶる[#「うちはやぶる」に傍線]とも言うてゐるから、をち[#「をち」に傍線]といつ[#「いつ」に傍線]・いち[#「いち」に傍線]の仮名遣ひの関係が訣る。引いては、神の憑り来る事も動詞化していつ[#「いつ」に傍線]と言ひ、体言化していつかし[#「いつかし」に傍線]・いちには[#「いちには」に傍線]など言ふ様になつたものか。いつ[#「いつ」に傍線]は、後世みたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]など言ひ、古くはをち[#「をち」に傍線]と言うたのであらう。をとこ[#「をとこ」に傍線]・をとめ[#「をとめ」に傍線]なども、壮夫・未通女・処女など古くから当てるが、村の神人たるべき資格ある成年戒を受けた頃の者を言うたのが初めであらう。
うずめ[#「うずめ」に傍線]と言ふ職は、鎮魂を司るもので、葬式にもうずめ[#「うずめ」に傍線]が出る。此資格の高いものを鈿女命と言ふ。臼女ではない。恐《ヲゾ》しの「をぞ」と言ふが、やはり仮名の変化でうつめ[#「うつめ」に傍線]・をつめ[#「をつめ」に傍線]だと思ふ。魂を「をちふらせる」役であらう。出現する意からうつ[#「うつ」に傍線]・うつし[#「うつし」に傍線]となつて、現実的な事を言ひ、うつゝ[#「うつゝ」に傍線]などに変つたことは、まさ[#「まさ」に傍線]・まさし[#「まさし」に傍線]の、元は神意の表出に言ふのと同じい。をとこ[#「をとこ」に傍線]・をとめ[#「をとめ」に傍線]に対しては、天のますひと[#「天のますひと」に傍線]がある。うつる[#「うつる」に傍線]・うつす[#「うつす」に傍線]も神の人に憑つての出現であり、うち[#「うち」に傍線](>氏)も外来神霊を血族伝承によつてつぐことが行はれてからの語で、其を続けて受ける団体の順序がつぎ[#「つぎ」に傍線]と言ふ具体的なのに、対してゐる。物部の八十氏川の「氏」も、実は氏多きを言ふのではなくうち[#「うち」に傍線]を多く持つことであらうか。
血族の総体を一貫して筋と言ひ、其義から分化して線・点・処などに用ゐる。沖縄でもやはりすでに[#「すでに」に傍線]は「完全に」の意である。すつ[#「すつ」に傍線]・うつ[#「うつ」に傍線]・うつる[#「うつる」に傍線]も皆「をはる」の意から、投げ出すの義になつたものである。すだく[#「すだく」に傍線]は精霊などの出現集合することであらう。
かうして見ると、をつ[#「をつ」に傍線]・いつ[#「いつ」に傍線]に対するすつ[#「すつ」に傍線]があつた様である。奥津棄戸のすたへ[#「すたへ」に傍線]も霊牀の意であらう。をつ[#「をつ」に傍線]・いつ[#「いつ」に傍線]に当る琉球の古語「すぢ」は、せち[#「せち」に傍線]・しち[#「しち」に傍線]など色々の形になつてゐる。先祖などもすぢ[#「すぢ」に傍線]と言うた様である。よく見ると、神の義がある。聞得大君御殿《チフイヂンオドン》の三御前《ミオマヘ》の神、即おすぢ[#「おすぢ」に傍線]のお前・金の御おすぢ[#「おすぢ」に傍線]の御前・御火鉢の御前の中、金のみおすぢ[#「金のみおすぢ」に傍線]は、米と共に来た霊であつて、後世穀神に祀つた。おすぢの御前[#「おすぢの御前」に傍線]は先祖の神と解せられてゐるが、王朝代々の守護神なる外来魂である。
五
私は、すぢぁ[#「すぢぁ」に傍線]といふ「人間」の義の琉球古語の語原を「すでる者」「生れる者(あ[#「あ」に傍線]は名詞語尾)」の義に解してゐたが、抑《そもそも》此解釈の出発点に誤解のあることを悟つた。すでる[#「すでる」に傍線]者は即、外来魂を受けて出現する能力あるものゝ意である。だが、皆此語の用例は特殊である。神意を受けた産出者である。選ばれた人である。恐らく神人の義であること、日本のひと[#「ひと」に傍線]・ますひと[#「ますひと」に傍線](まさ)と同じで、巫女の古詞章に出て来るものは、神人以外の者には亘らぬから、同じ古詞の中にも、すぢぁ[#「すぢぁ」に傍線]が一般の人の義に解して用ゐられ、世間でも使ふ様になつたのだと思ふ。国王及び貴人の家族は皆神人だから、すぢぁ[#「すぢぁ」に傍線]である。すぢ人[#「すぢ人」に傍線]と言ふよりは、すぢり人[#「すぢり人」に傍線]の意である。すぢ[#「すぢ」に傍線]の守護から力を生じるとして、すぢ[#「すぢ」に傍線]を言はぬ世にはまぶり[#「まぶり」に傍線](守り)を以て魂を現した。体外の魂を正邪に係らずもの[#「もの」に傍線]と言ふ様になつた。
すぢぁ[#「すぢぁ」に傍線]に見える思想は、日本側の信仰を助けとして見ると、「よみがへるもの」でも訣るが、根柢は違ふ。一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る。初め神に仕へた者も、今仕へる者も、同じ人であると考へてゐたのだ。人であつて、神の霊に憑られて人格を換へて、霊感を発揮し得る者と言ふので、神人は尊い者であつた。其が次第に変化して来た。神に指定せられた後は、ある静止の後転生した非人格の者であるのに、それを敷衍して、前代と後代の間の静止(前代の死)の後も、それを後代がつぐのは、とりもなほさずすでる[#「すでる」に傍線]のであつて、おなじ資格で、おなじ人が居る事になる。
かうして幾代を経ても、死に依つて血族相承することを交替と考へず、同一人の休止・禁遏生活の状態と考へたのだ。死に対する物忌みは、実は此から出たので、古代信仰では死は穢れではなかつた。死は死でなく、生の為の静止期間であつた。出雲国造家の伝承がさうである。ほかでの祓へを科する穢れの、神に面する資格を得る為の物忌みであるのとは大分違ふ。家により地方により、此すでる[#「すでる」に傍線]期間に次代の人が物忌みの生活をする。休止が二つ重るわけである。皇室のは此だ。だから神から見れば、一系の人は皆同格である。日本の天子が日の神・御祖《ミオヤ》・ひるめ[#「ひるめ」に傍線]の頃から、いつも血族的にはにゝぎの命[#「にゝぎの命」に傍線]と同格のすめみま[#「すめみま」に傍線]であり、信仰的には忍穂耳命同様日の御子であつた。琉球時代は、天子をてだて[#「てだて」に傍線]と言うた。太陽の子である。後に太陽を譬喩にした者と感じて、太陽をさへてだて[#「てだて」に傍線]と言うた。日の御子である。
すでる[#「すでる」に傍線]の原義は、謂はゞ出現する事であつた。日本で言へば、出現の意のある[#「ある」に傍線]と言ふ語である。或はいづ[#「いづ」に傍線]である。すぢ[#「すぢ」に傍線]のつく動作を言ふ語で、即、母胎によらぬ誕生である。ある[#「ある」に傍線]と言ふ日本語も、在[#「在」に傍線]・有[#「有」に傍線]の義と言ふよりは、すでる[#「すでる」に傍線]義があつたのではないか。荒・現・顕などの内容があつた。あら人神[#「あら人神」に傍線]など言ふのも、すぢぁ[#「すぢぁ」に傍線]にして神なる者と言ふことで、君主の事である。地方の小君主もあら人神[#「あら人神」に傍線]なるが故に、社々の神主としての資格に当るので、其を回して、其祀る神にも言うた。併し古文の用例としては、神主を神なるものとして言うたと見る方がよい様だ。あれ[#「あれ」に傍線](幣)に対して、いち[#「いち」に傍線]・うた[#「うた」に傍線](歌)があり、いつ何[#「いつ何」に傍線]と言ふ用語例も、厳橿・厳さかき[#「厳さかき」に傍線]などになると、神出現の木と言ふ義を持つのかも知れぬ。神名のうし[#「うし」に傍線]などもうち[#「うち」に傍線]の転化ではなからうか。日本の最古い神名語尾むち[#「むち」に傍線]はうち[#「うち」に傍線]であらう(おほなむち[#「おほなむち」に傍線]・おほひるめむち[#「おほひるめむち」に傍線]・ほむちわけ[#「ほむちわけ」に傍線]など)。皇睦神《スメラガムツカム》ろぎなど言ふ睦《ムツ》も誤解で、いつ[#「いつ」に傍線]・うつ[#「うつ」に傍線]で神の義か、いつく[#「いつく」に傍線]などに近い義か。珍彦《ウヅヒコ》など言ふうづの何[#「うづの何」に傍線]もいつ[#「いつ」に傍線]と同じだらう。ひこ[#「ひこ」に傍線]はひるめ[#「ひるめ」に傍線]の生んだ日の子であり、天子の日のみ子[#「日のみ子」に傍線]と区別したのである。
神人・巫女などに日を称したのもある。にぎはやび[#「にぎはやび」に傍線]・たけひ[#「たけひ」に傍線]、後世の朝日・照日などもある。ひと[#「ひと」に傍線]のと[#「と」に傍線]も、刀禰《トネ》などのと[#「と」に傍線]で、神の配下の家の意であらうか。神《カミ》の属隷の義だらう。神《カミ》のみ[#「み」に傍線]・祇《ツミ》(つ[#「つ」に傍線]は領格の語尾)のみ[#「み」に傍線]など、皆精霊の義であらうか。女性の神称に多いなみ[#「なみ」に傍線]のみ[#「み」に傍線]も同様である。な[#「な」に傍線]はの[#「の」に傍線]で、領格の語尾であることは、つ[#「つ」に傍線]と同じい。
むち[#「むち」に傍線]は獣類の名となつて、海豹《ミチ》・貉などの精霊に、つち[#「つち」に傍線]は蛇・雷などの名となつた。餅《モチ》もひよつとすると、霊代になるものだから、むち[#「むち」に傍線]・いつ[#「いつ」に傍線]・うつ[#「うつ」に傍線]の系統かも知れぬ。酒《キ》・饌《ケ》なども神名であらう。よ[#「よ」に傍線]などもいつ[#「いつ」に傍線]と関係があるのだらう。よる[#「よる」に傍線]・よす[#「よす」に傍線]のよ[#「よ」に傍線]で、善《ヨ》であり、寿《ヨ》であり、穀《ヨ》である。常世のよ[#「よ」に傍線]も或は此かも知れぬ。よる[#「よる」に傍線]はいつ[#「いつ」に傍線]に対する再語根であらうか。少し横路に外れたが、前に回つて、をる[#「をる」に傍線]・をつ[#「をつ」に傍線]は同根であらう。かうして見ると、二三根の語が始めて一根の語を出して、又二三根の語を作る様である。いつ[#「いつ」に傍線]・うつ[#「うつ」に傍線]・すつ[#「すつ」に傍線]・いづ[#「いづ」に傍線]・ある[#「ある」に傍線]・ます[#「ます」に傍線]など皆同系の語であつたらしい。「をく」なども、をつ[#「をつ」に傍線]から出た逆用例であらう。
六
さて、をつ[#「をつ」に傍線]はどうして繰り返す意を持つか。外来魂が来る毎に、世代交替する。さうして何の印象もなく、初めに出直すと見てゐたのが、段々時間の考へを容れた為、推移するものと観じて来た。出雲国造神賀詞の「彼方《ヲチカタ》の古川岸、此方の古川岸に、生ひ立てる、若水沼《ワカミヌマ》のいや若え[#「若え」に傍線]にみ若え[#「若え」に傍線]まし、濯《スヽ》ぎ振るをどみ[#「をどみ」に傍線]の水の、いやをち[#「をち」に傍線]にみをち[#「をち」に傍線]まし……」などに見えるをちかた[#「をちかた」に傍線]と言ふ語には、寿詞を通じてをち[#「をち」に傍線]霊の信仰が見える。わかゆ[#「わかゆ」に傍線]とをつ[#「をつ」に傍線]とを対照してゐるのは、同義類語と考へたのだ。わかゆ[#「わかゆ」に傍線]は「わかやぐ」の語原で、若々しくなる義だ。古くは、若くなる事であつたかも知れぬが、此辺の用語例はをつ[#「をつ」に傍線]と同じに用ゐてある。くり返す事を一個人について謂へば、蘇ることであり、又毎年正月に其年のくり返しする事にも言ふ。さうすると「みをちませ」は若返りの事を意味するのだ。
出雲国造は親任の時二度、中臣は即位の時一度だけであつたが、氏[#(ノ)]上の賀正事になると毎年あつた。天子の魂のをつる[#「をつる」に傍線]ことを祈るのが初めで、其が繰り返すことを祈るのである。生者だから蘇るといふのでなく、生も死も昔は魂に
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