と」に傍線]の、茲も血を承けた、強い証拠らしい気を起させたであらう。問ひつめれば、理にもならぬはかない花の姿が、気持ちの上には実証的な力を以て迫つたでもあらう。歌に詠まれたましら[#「ましら」に傍線]の影は見られずとも、妻恋ふる鹿は、現に居た。西の海中《トナカ》の離島《ハナレ》の一つには「かひよ/\」の声も聞かれる。島にも、優美な歌枕がある。かうしたことが、なんぼう張り合ひになつたことか。やまと[#「やまと」に傍線]の人の誇り書きにする「ものゝあはれ」は島人も知つてゐる。かうした事からこみあげて来る親しみ心は、島人の所謂「他府県人」なる我々にも、凡《およそ》想像はつく。
此頃になつて、又一つの島人の誇りが殖えて来た。鮎と言ふ魚は、日本の版図以外には棲まぬものである。其南部だけに、此魚の溯る川ある樺太も、だから、日本の領土になつた。かう言ふ噂が伝つて来たところが、沖縄にも唯一个処ながら鮎の棲む川があつた。宿命的にいや、血族的にやまと人[#「やまと人」に傍線]たる証拠に違ひない。かうした考へが起るに連れて、支那と薩摩を両天秤にかけた頃のくすんだ気持ちは、段々とり払はれて行く様である。
其の鮎の獲れる場処と言ふのは、国頭《クニガミ》海道の難処、源河の里の水辺である。里の処女の姿や、情《ナサケ》を謡ふ事が命の琉球の民謡には、村の若者のとりとめぬやるせなさの沁み出たものが多い。
三
東京へ引き出しても、不覚《オクレ》はとらなかつた筈の琉球学者末吉安恭さんは、島の旧伝承の生きた大きな庫であつた。さうして、私たちが、幾らも其知識を惹き出さない間に、那覇の入り江から彼岸浄土《ニライカナイ》の大主神《ウフヌシ》が呼びとつて了うた。
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源河奔川《ヂンカハイカア》や、水か。湯か。潮《ウシユ》か。
源河|女童《ミヤラビ》の 御《ウ》すぢ[#「すぢ」に傍線]どころ(源河節)
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此源河節に対する疑問などは、私にとつて、此学者の記念《カタミ》になつた。
私は其前年かに、宮古島から戻つて来て、今大阪外国語学校に居るにこらい・ねふすきい[#「にこらい・ねふすきい」に傍線]さんから、一つの好意に充ちた抗議を受けてゐた。私の旧著万葉集辞典と言ふのは、今では人に噂せられるさへ、肩身の窄まる思ひのする恥しい本である。其中に「変若水《ヲチミヅ》」と言
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