対しては同待遇だつたのだ。其為、同じ語も生者に対しては「くり返す」ことになるのである。此が時代の進むに連れて若返る事になる。そして其霊力の本は食物にあつた。即、呪言のほ[#「ほ」に傍線]を捧げるのである。
中臣天神寿詞には、天つ水と米との事が説かれてある。米の霊と水の魂とが、天子の躬に入るのであつた。此がをつる[#「をつる」に傍線]のであり、若返る意になる。誄詞に用ゐられると、蘇生を言ふ。正月の賀正事にも、氏[#(ノ)]上はほ[#「ほ」に傍線]を奉つて寿する。氏々を守つた此ほ[#「ほ」に傍線]の外来魂を、天子が受けて了はれるのである。天子は氏々の上に事実上立たれたわけだ。
降伏の初めの誓詞も、此寿詞である。処が、をつ[#「をつ」に傍線]と言ふ語が、段々健康をばかり祝ふ様になつて、年の繰り返しを言ふのを忘れて行つた。飯食に臨む外来魂をとり入れる信仰から、よるべの水[#「よるべの水」に傍線]の風習も出て来る。魂と水との関係である。人の死んだ時水を飲ませるのも、此霊力観が段々移つて行つたのだ。死屍に跨つてする起死法も水のない寿詞だ。唯身分下の人の為にする方式だつたのだ。
呑む水の信仰が、従つて洗ふ水になつた。初春の日には、常世から通ずるすで水[#「すで水」に傍線]が来る。首里朝時代には、すで水[#「すで水」に傍線]は、国頭の極北|辺土《ヘヅ》の泉まで汲みに行つた。其が、村の中のきまつた井にも行くやうになり、一段変じて家々の水ですます事にもなつた。此が日本の若水で、原義は忘れられて、唯繰り返すばかりになつた。家長或はきまつた人が汲むのは、神主格になるのである。又、若水を喚ぶ式もあつた。常世の国から通ふ地下水である。だから、常世浪は皆いづれの岸にも寄せて、海の村の人の浜下り、川下りの水になる。
但、神が若水を齎すのは、日本では、臣になつた神が主君なる神の為にであつた。島の村々の中では、或は五穀の種の外に、清き水をも齎し、壺のまゝ漂したこともあらう。沖縄の島では、穀物の漂著と共に、「うきみぞ・はひみぞ」の由来を説いてゐる。此も常世の水が出たのである。人が呑むと共に、田畠も其によつて、新しい力を持つのだ。
すでる[#「すでる」に傍線]ことの出来る人は、君主であつた。日本にも母胎から出なかつた神は沢山あつた。いざなぎの命[#「いざなぎの命」に傍線]檍原《アハギハラ》で祓への為にすで
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