。よ[#「よ」に傍線]などもいつ[#「いつ」に傍線]と関係があるのだらう。よる[#「よる」に傍線]・よす[#「よす」に傍線]のよ[#「よ」に傍線]で、善《ヨ》であり、寿《ヨ》であり、穀《ヨ》である。常世のよ[#「よ」に傍線]も或は此かも知れぬ。よる[#「よる」に傍線]はいつ[#「いつ」に傍線]に対する再語根であらうか。少し横路に外れたが、前に回つて、をる[#「をる」に傍線]・をつ[#「をつ」に傍線]は同根であらう。かうして見ると、二三根の語が始めて一根の語を出して、又二三根の語を作る様である。いつ[#「いつ」に傍線]・うつ[#「うつ」に傍線]・すつ[#「すつ」に傍線]・いづ[#「いづ」に傍線]・ある[#「ある」に傍線]・ます[#「ます」に傍線]など皆同系の語であつたらしい。「をく」なども、をつ[#「をつ」に傍線]から出た逆用例であらう。

     六

さて、をつ[#「をつ」に傍線]はどうして繰り返す意を持つか。外来魂が来る毎に、世代交替する。さうして何の印象もなく、初めに出直すと見てゐたのが、段々時間の考へを容れた為、推移するものと観じて来た。出雲国造神賀詞の「彼方《ヲチカタ》の古川岸、此方の古川岸に、生ひ立てる、若水沼《ワカミヌマ》のいや若え[#「若え」に傍線]にみ若え[#「若え」に傍線]まし、濯《スヽ》ぎ振るをどみ[#「をどみ」に傍線]の水の、いやをち[#「をち」に傍線]にみをち[#「をち」に傍線]まし……」などに見えるをちかた[#「をちかた」に傍線]と言ふ語には、寿詞を通じてをち[#「をち」に傍線]霊の信仰が見える。わかゆ[#「わかゆ」に傍線]とをつ[#「をつ」に傍線]とを対照してゐるのは、同義類語と考へたのだ。わかゆ[#「わかゆ」に傍線]は「わかやぐ」の語原で、若々しくなる義だ。古くは、若くなる事であつたかも知れぬが、此辺の用語例はをつ[#「をつ」に傍線]と同じに用ゐてある。くり返す事を一個人について謂へば、蘇ることであり、又毎年正月に其年のくり返しする事にも言ふ。さうすると「みをちませ」は若返りの事を意味するのだ。
出雲国造は親任の時二度、中臣は即位の時一度だけであつたが、氏[#(ノ)]上の賀正事になると毎年あつた。天子の魂のをつる[#「をつる」に傍線]ことを祈るのが初めで、其が繰り返すことを祈るのである。生者だから蘇るといふのでなく、生も死も昔は魂に
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