前の形式であって、貧乏だから尼になったのではなく、尼になる年齢になったから尼になったのである。だが、それを一概に笑うておらぬ証拠は、源氏物語にもある。紫の上を死ぬまで尼にせぬ。早く入道したいと頼むが、終わりまでせぬ。源氏の作者は、その点を、利己的だと、源氏が反省するふうにして書いている。泣かんばかりに訴えている。平安朝あたりでは、宗教的に去るところは、仏教の考えが普通の形になるのだが、仏教が社会の根底にならぬうちは、そうではなく、仏教は生活の規範になっておらぬ。その頃は、神のために夫から去るのだと考えている。平安朝では、去る方法として尼になるが、その以前は、神の要求のためだとしている。
わが国の文学史に現われる女は、上の階級の者か、神に仕えている女に限られている。そういう女は、神に仕えるか、または、神のものであった。だいたい、この推測は外れておらぬと思う。一時、人間の夫をもっていて、また神の所有に帰る。普通の人は、前後は神のもので、中だけが人間のものと考えられる。だから、早く神のものに帰らねばならぬ。それで、夫婦関係のつづいてゆく年限は非常に短かった。
すると、どうしても代わりの女
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