くさんある。
 近世では、水戸烈公の話や、西鶴の『武道伝来記』にも書かれている。これは武士階級特有のものでなく、逆に下からあがってきたのだとも思われる。武士が純化せぬうちに、下からはいって体面を保ったものであったのだろう。つまり、敵討ちの根本は、世の中で許されぬような行為を犯した者を、この世からほうり出すのには、もっとも関係の近い者、その汚れに触れたものが出て行く、ということから出ている。だから、一つの誇りと道徳感とがはいっている。
 順序に並べて、親、兄弟、主君の敵討ちのうち、主君の敵討ちを道徳的に高いものとみている。兄弟のは、伊賀越えなどがその例で、これになると、根本は軽いように思われるが、昔の人は同様にみていた。「めんばれ」という語があって、汚された名誉を回復することに感心している。うわなりうち、めがたきうち、かたきうちと三つ並べると、ずっとひとつづきである。だから、道徳的な考えがはいってないとは言えぬ。つまり、われわれが道徳化して言うのではなく、昔の人は、その行為のなかに道徳を見出すのである。
 近代でも、めがたきうちを行のうた階級と思われる武家には、不思議な習慣があった。妻の
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング