供がたくさんつく。たとえば、近衛家から輿入れがあると、それに身分の高い上臈がついて行く。御簾中が正妻だが、ついてきた上臈たちとも、将軍は夫婦関係を結んだ。これは、てかけ、めかけとは言えぬ。てかけというと安っぽいが、正月に挨拶のために親方筋に行くと、三宝が出る、それに手をかけるのが、てかけである。これは合理的だが、ともかく、庇護の下に置かれる、という意味が、てかけ、めかけである。てをかける、めをかけるに特別に意味をもたすが、てかけは、下の者が上の者に保護を仰ぐことを言うらしい。物質的保護を受けることで、そのうち、女だけに、てかけという語が広く行なわれたのである。めかけのほうはまだ問題が残っている。
 御簾中は、上臈に対して、女だから腹を立てるべきだのに、むしろ喜んでいる。つまり、自分のすべきことを身近い者が代わってしてくれるのだと考えた。夫婦関係を長く持続することは、迷惑だと考えることが根本にある。それにはまた、他の理由がある。
 日本紀には、「ことさかのめやつこ」という語が出ている。夫に対して自分が妻であることを辞退するとき、その代わりに夫に与える女の奴隷のことである。ことさかとは、ものを判断することであり、離別するときにも使う。そんなことの裏に、神事関係がはいっていることがわかる。ことさかのめやっこは、一つの贖罪のために出すもので、出すのは夫である。あがないを受けるのは普通は神であるが、神が人間に代わってくることはある。あるいは、仲介者がとることもある。祓えをする者がとるのが普通であるから、謝礼とも考えられる。
 夫婦関係には宗教的観念がはいっている。妻が離別されるわけではないが、女が相当な年になると夫から離れる。これを、「しとね遠慮」と言い、夫の坐っている所から去るのである。そのあとには控えの人たちが用意してある。もしそれをせず長く添いとげると、大名間では、あの奥方は色深いとて笑いものにされ、早く別れねばならぬことになる。これが中世だと、仏教的に解釈し、女は罪が深いから早く仏道にはいらねばならぬ、尼にならねばならぬと考えた。
 紀有常の妻は、妻でいて尼になっている。伊勢物語のなかでも特に小説的な話だが、われわれから考えるとあわれは少なくなる。そんな尼は離別しても出て行くのではなく、夫婦関係をつづけながら尼になっているのである。有常は次の妻と結婚する。これは当たり
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング