すべきでないと考え、相手にしなかった。
 しかし、昔はしばしば他人が間にはいって、「うはなりうち」ということが行なわれた。自分の夫に新しい愛人ができたとき、その家へ、元からの妻が自分の身内をかたろうて攻めかけて行き、家へ乱入し、その家の道具をめちゃめちゃにしてくる。これは、別に相手を傷つけるためではない。何のためにするのかというと、根本は、自分らの面目を立てるためで、それをせぬと顔が立たぬのである。つまり、一つの形式化した低い道徳で、道徳に足をかけかけた、もう少しで道徳になるものと言うべきであろう。
 自分の女房を犯した男があったとき、その男を殺すことを「めがたきうち」と言うが、これは道徳になっている。このほうは、密通した男と妻とを一度に討つことを条件と考えているようだが、妻の意志であっても、また強いられたにしても、その男を討つのが根本で、世間の制裁がはげしくなるにつれて変わったのだ。めがたきうちは、下級の者のもっていた低い道徳であったのが、武士の階級の道徳にはいっていったのである。その過渡期には、男らしくないことだ、という新しい見解で、だんだん有識階級から退けられ、軽んぜられた例もたくさんある。
 近世では、水戸烈公の話や、西鶴の『武道伝来記』にも書かれている。これは武士階級特有のものでなく、逆に下からあがってきたのだとも思われる。武士が純化せぬうちに、下からはいって体面を保ったものであったのだろう。つまり、敵討ちの根本は、世の中で許されぬような行為を犯した者を、この世からほうり出すのには、もっとも関係の近い者、その汚れに触れたものが出て行く、ということから出ている。だから、一つの誇りと道徳感とがはいっている。
 順序に並べて、親、兄弟、主君の敵討ちのうち、主君の敵討ちを道徳的に高いものとみている。兄弟のは、伊賀越えなどがその例で、これになると、根本は軽いように思われるが、昔の人は同様にみていた。「めんばれ」という語があって、汚された名誉を回復することに感心している。うわなりうち、めがたきうち、かたきうちと三つ並べると、ずっとひとつづきである。だから、道徳的な考えがはいってないとは言えぬ。つまり、われわれが道徳化して言うのではなく、昔の人は、その行為のなかに道徳を見出すのである。
 近代でも、めがたきうちを行のうた階級と思われる武家には、不思議な習慣があった。妻の
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング