辞書
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上《かみ》つ髭《ひげ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)第四皇女|勤子《きんし》内親王
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)同時にことば[#「ことば」に傍点]を
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)源[#(ノ)]順
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日本の辞書のできてくる道筋について考えてみる。
そういうとき、すぐにわれわれは『倭名類聚鈔』を頭に浮かべる。それより前には辞書がなかったかというと、以前のものが残っていないというだけのことで、源[#(ノ)]順が突如として辞書をこしらえたというのではない。『倭名鈔』があれだけ正確な分類をしていることからみても、それが忽然と出てくるわけはない。それまでに、辞書を作る修練を日本の学界は積んでいたのである。漢字を集めた辞書のほかに、日本語を集めたものができていたと思われる。日本語を記録することがもっと早くからあったのだ。『倭名鈔』をみても、漢字の名詞、熟字を示して、それに和訓を付けている。ときによると、訓をつけることができなくて、訓を付けてなかったり、または、無理に付けたりしている。たとえば『倭名類聚鈔』には、「髭」「鬚」をそれぞれ「上《かみ》つ髭《ひげ》」「下《しも》つ鬚《ひげ》」などと訓んでいるが、こんなことはいわない。日本語としては嘘の話だが、漢字を伝えるためには、このように語を新たに作らなくてはならぬことになる。
ともかく、漢字を出して、それにあたる訓を考えている。これをもう少し歴史的に、一つの過程として考えると、言語を覚えるという、日本人が昔からもっている努力のあらわれということはいえる。
歌ことば
倭名鈔は、醍醐天皇の第四皇女|勤子《きんし》内親王の仰せによって、源[#(ノ)]順が奉ったといわれている。平安朝盛期に源[#(ノ)]為憲の『口遊《くゆう》』という書物――純然たる辞書ではないが、性質は似ている――が出た。つまり、文字を覚えさせるためのものだ。これは近代まで続いている。いまの若い方々が習った書き方の手本や読本には、もうそういう色合いはなくなっていたろうが、私の習った頃は文字ばかりである。文字を覚えることは、同時にことば[#「ことば」に傍点]を覚えることと考えていた。書き方の手本には名詞ばかり集めてあるか、または、名詞を多く含んでいる往来物を書いている。辞書では『節用集』である。言語を覚えさせるために、言語をあらわす文字を集めている。これは平安朝まで溯ることができる。『倭名類聚鈔』『新撰字鏡』『伊呂波字類抄』、皆そうである。その前は、ことば――大事な語――を覚えさせることだった。だから日本では、歌のうえのことばを早くから覚えさせている。枕ごと、あるいは歌枕というようなものを覚えさせている。平安朝の文学をみると、随所にその俤がみえる。そういうことばを覚えることは、古くは信仰のためであって、後には、文学のために覚えることになる。言い換えると、信仰をもって伝えられているもののなかの文章を習ってことばを覚える。それによって、高い階級の人としての資格を作る。
だから早くから歌ことばにたいする知識はあり、それがだんだん書物をもつようになった。歌ことばを集めるということが、歌論、歌学と一つになってきて、歌学の一つの内容になってきた。われわれの口の文学は、追いつめれば、ことばになってしまう。日本文学の病弊をいちばんあらわしている俳諧は、単一な語の勢力に帰してしまう。約束的な語を入れねばならぬ。ともかく、辞書ができる以前にすでに、古代の語を集めようとする欲望が日本人にあった。生きていることばではなく、文学語である。そのあらわれが倭名鈔に結びついてできあがった。倭名鈔は中国の辞書の延長ということもあるが、もっと根本には右の欲求があった。
倭名鈔のできたのが、日本の辞書のできはじめではない。日本紀にその名のみえている『新字』も辞書だとすれば、天武天皇の時代で、とび抜けて早くからあったことになるが、それはちょっと信じられない。辞書は、倭名鈔の出るもっと古くからあったと同時に、その時代に通用している語と関係のない、古くからわれわれが持っていたと考えられていた語が、辞書に作られるという傾向が古くからあった。
日本人は、記録せぬということが神聖を保つ手段であると考えていた。だから、長い間記録しないままにきた。そのため、平安朝になって、歌学書のなかに語彙のようなものができてくるという形をとってきたが、それまでになかったわけではない。つまり、日本の辞書に二つの系統があるということである。一つは、純然たる日本の古語を保存しようとする努力。もう一つは、漢字を日本語に移そうとする努力
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