。この二つが日本に辞書のできる理由であり、事実この二つの方面の結果が出てきている。
漢字典
ところが、いちばん考えるべきことは、漢字の辞書のできた理由である。考えればやさしいことで、康熙字典を翻訳すればよい。用例もすててしまって、日本語の翻訳を加える。康熙字典のはいってくる前から利用されているものに『玉篇』がある。『玉篇』は日本でだんだん形が変わって、名も変わってきた。われわれの学生時代には、何とか玉篇というものがたくさんにあった。中国の玉篇を翻訳した漢和字典だ。これは辞書の編纂のいちばん素朴なものだ。
倭名鈔をみると、非常に組織はよくできているが、中国のどの書物によったのかわからぬ。新撰字鏡をみても、分類はよくできているが、やはり何によってできたかわからない。しかしまだ新撰字鏡のほうは当りがつく。偏や旁で引く、中国の辞書の体裁をとっている。倭名鈔のほうになると、当りがつかない。倭名鈔にはいろいろな書物が引いてある。原書からか孫引きかわからぬが、中国の本がたくさん出ている。兼名苑云……、昔はこうで和訓はこうだ、などと書いてある。「此字、文選云……、和訓云々」、と出ている。何か拠り所はあろうが、わからない。
いったい、辞書というものは何のために作るか。そんなことはわかりきったことだというかもしれぬが、ほんとうはわれわれにはわからなかったろうと思う。われわれが知っているのは皆、漢字のものだが、ごくわずかに国語の辞書が古くからあって、なかなか手にはいらなかった。で、辞書といえば漢字の辞書と思っていた。漢字の辞書は、書物を読むためのものというより、字の一個一個の日本的意義を知るもの、あるいは字の音を探るだけのもので、死んだ利用しかできなかった。それで考えてみると、辞書は考えられないような目的をもっている。本を読むためのものでなくて、あらゆる日本の事柄が出ていることが大事になる。中学生の辞書は、完全な目的を遂げているものではない。『辞林』『辞苑』は百科全書の小さいもので、ほんとうの意味での語彙ではない。啓蒙的な字引きにすぎない。けれども、常にわれわれの使う辞書といわれているもののなかにはいってくるものは、字引きと語彙だ。字引きのほうは栄えて、語彙は利用の範囲が少ない。むしろ利用せられているかいないかわからない。厳格にいうと、日本にはまだほんとうの語彙はない。完全に一冊もないといってもよいくらいである。
辞書の二つの態度
辞書のなかに二つの態度がある。というとおかしいが、引き方に二つの方法がある。擬古文を書く初歩の人が使う字引きとして、「雅言俗解」「俗言雅訳」といった種類のものがある。いまの語から古い語、あるいは古い語を出して、それに当るいまのものをつけてある。書物を読む場合には「雅言俗解」を使い、擬古文を作るときには、いまの語から古い語を引いてくる必要があったので「俗言雅訳」を引く。そういう仕事は明治以後の人は横着でしなくなったが、徳川時代には盛んにやっている。佐佐木弘綱氏は、明治にはいっても「雅言俗解」のほうをやっていた。昔の人の仕事の増補をしたにすぎないが、読んで面白いし、昔の人の語の味わい方がわかる。
こうした態度は、平安朝にいってもある。『伊呂波字類抄』、いろはにほへと[#「いろはにほへと」に傍点]と並べて、不正確ながら分類も行なわれている。同音の語を陳列し、分類してある。固有名詞もたくさんある。古い辞書で正式に固有名詞を排除したのは新撰字鏡だけで、倭名鈔も、二十巻本には固有名詞がたくさんはいっている。『伊呂波字類抄』は、日本の語からそれに当る漢字を探し出す。「俗言雅訳」と似ているが、この語に当る字は何かと探すのだから、違う。伊呂波字類抄も形が進んでいて、そういうものの歴史もかなり古いと思われる。山田孝雄氏がその系統を調べておられ、古典全集の解題のなかに、その研究が発表されている。そういうふうに、平安朝時代からすでに、漢字をば主としていくものと、両方ある。
名前からみれば和訓を示そうとした目的がみえるが、実際の仕事からみると倭名鈔は和訓をそんなに問題にしていない。倭名鈔の編纂の態度は学問的である。当る和訓がないと無理をしないで通っている。伊呂波字類抄のほうは、国語を発音によって並べ分類している。国語の辞書の歴史のうえでは大事のものだ。新撰字鏡になると、中国の辞書の翻訳である。今日われわれに残っている平安朝の辞書には、この三つの態度がみられる。
日本の辞書の歴史はごく簡単なもので、それが合流して節用集となった。これらがいろいろな形に変わってきて、種々な節用集になった。そして、ずっと明治の前までつづいてきた。ただ、おかしいのは、和訓に歴史があって、容易に新しい訓を加えなかった。誰でも歴史を大事に
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