するから、昔の本にあった訓を捨てない。明治になって、やっとそれを捨てた。服部宇之吉、小柳司気太両先生の辞書あたりからだ。「菊」の訓に「かはらをはぎ」などとある。そういうふうに変だとわかっている訓すら残していた。だから、国語を研究する者の一つの探りは、固定して残っている和訓から、古い語を知ることである。字と結びついて古い語が遺っている。それによって、いまなくなっている語を知るという便利がある。

    語源

 これくらいで辞書についての根本の考えは決まっていくと思う。ただいまのところ、ほんとうの意味の辞書がない。できれば歴史的排列をしたものが必要である。でないと、いちいちの言語の位置が決まらない。いつでも、江戸時代の語も室町時代のも、奈良朝の語も、同じに扱っている。江戸時代の語の説明に奈良朝の語をもってきて釈いている。言語の時代錯倒が行なわれている。そのためには歴史的に記述した態度が必要だ。が、そういうものが一つもない。
 これをするのには、エチモロジカルな形をとらなくてはならぬことになる。語源は面白いので、存外昔から語源的辞書はある。明治になって出たのは、大槻さんの『言海』。言海の語源の説明には、落し咄がたくさんある。昔の言海には文典が附録についていた。この文典は非常によいものであるにかかわらず、本文のほうの語源はいい加減のものがある。語源は誰でもちょっと面白く考えられるが、非常に広い知識と機会とが必要だ。いつ考えても語源の考えが浮かんでくるというわけにいかない。語源を考えるには、科学的に行なわれぬ点がある。ことばができたときから、意義が飛躍してしまっている。飛躍して変わってしまった意義の語をもって、その語のもとを探ることはできない。証拠になるもとの形のものが残っているということは考えにくいうえに、いまの形とぴったりいくものは出てこない。だから、機会に行きあった人が幸運に語源をつかまえるだけだ。科学的な態度で押していったところで、かならずしも成績をあげるということにならない。ほんとうはむつかしいことだ。そのかわり享楽的になる。侮辱されても仕方のないような研究を出している。外国語を十分に知り、科学的態度をはずさない人がやっても、やはり駄目である。新村出氏のような方でも、やはり、いつもよいわけではない。ただ、信頼できるというだけで、皆が皆まで正しいといえないことにな
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