完全に一冊もないといってもよいくらいである。
辞書の二つの態度
辞書のなかに二つの態度がある。というとおかしいが、引き方に二つの方法がある。擬古文を書く初歩の人が使う字引きとして、「雅言俗解」「俗言雅訳」といった種類のものがある。いまの語から古い語、あるいは古い語を出して、それに当るいまのものをつけてある。書物を読む場合には「雅言俗解」を使い、擬古文を作るときには、いまの語から古い語を引いてくる必要があったので「俗言雅訳」を引く。そういう仕事は明治以後の人は横着でしなくなったが、徳川時代には盛んにやっている。佐佐木弘綱氏は、明治にはいっても「雅言俗解」のほうをやっていた。昔の人の仕事の増補をしたにすぎないが、読んで面白いし、昔の人の語の味わい方がわかる。
こうした態度は、平安朝にいってもある。『伊呂波字類抄』、いろはにほへと[#「いろはにほへと」に傍点]と並べて、不正確ながら分類も行なわれている。同音の語を陳列し、分類してある。固有名詞もたくさんある。古い辞書で正式に固有名詞を排除したのは新撰字鏡だけで、倭名鈔も、二十巻本には固有名詞がたくさんはいっている。『伊呂波字類抄』は、日本の語からそれに当る漢字を探し出す。「俗言雅訳」と似ているが、この語に当る字は何かと探すのだから、違う。伊呂波字類抄も形が進んでいて、そういうものの歴史もかなり古いと思われる。山田孝雄氏がその系統を調べておられ、古典全集の解題のなかに、その研究が発表されている。そういうふうに、平安朝時代からすでに、漢字をば主としていくものと、両方ある。
名前からみれば和訓を示そうとした目的がみえるが、実際の仕事からみると倭名鈔は和訓をそんなに問題にしていない。倭名鈔の編纂の態度は学問的である。当る和訓がないと無理をしないで通っている。伊呂波字類抄のほうは、国語を発音によって並べ分類している。国語の辞書の歴史のうえでは大事のものだ。新撰字鏡になると、中国の辞書の翻訳である。今日われわれに残っている平安朝の辞書には、この三つの態度がみられる。
日本の辞書の歴史はごく簡単なもので、それが合流して節用集となった。これらがいろいろな形に変わってきて、種々な節用集になった。そして、ずっと明治の前までつづいてきた。ただ、おかしいのは、和訓に歴史があって、容易に新しい訓を加えなかった。誰でも歴史を大事に
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