である。だが場合によつては、現在の第一国語のほかに、用ゐて効果の期待出来ない題材がある。其は唯現実の生活を表現することにおいてのみ意味のある場合である。だが其すら、時としては、技術者の習練によつて、第二国語――一層溯つて詩語としての鍛錬を経た古語を用ゐて、効果をあげることがある。だがその場合は、現実のけば/\しさ、生なましさは、静かに底に沈んで柔かな光を放つであらう、が、これは一種のあなくろにずむ[#「あなくろにずむ」に傍点]に価値を置いて作る時に限るものである。これで見ても、詩は必しも現実の言葉を以て、表現するだけではなく、古語を置き替へる事も自由なのだから、其所に現れて来るものも、あなくろにずむ[#「あなくろにずむ」に傍点]と言ひ棄てられぬことが多い。語自身が論理的でないことを示すやうなものではない。言ひかへれば、一種えきぞちつく[#「えきぞちつく」に傍点]な感情を持たせること、又それよりはもつと正しげに見える詩の古くからの習慣から割合ひに高く評価せられて来た、其反感から、結果逆に古語による文体は、実質以上に軽蔑せられてゐる。併し現代語で――例へば中世以前の抒情詩を書く事は、論理的
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