山正一さん以来、誰の詩にもそれを求める事が出来なかつた。何よりも、その詩の音調の卑俗な事は、たとひ新体詩史をどんなに激賞しても、中西梅花・宮崎湖処子を尊敬させはしないのである。北村透谷に於てすら殆ど無思想を感じるのは、思想的内容を積む事の出来ない近代語を並列して居つたからである。近代語・現在語を以て思想表現をすることが、真の目的と考へられたことであらうか。それは今すら殆ど実現出来てゐないことなのだから、まして此時代の人々に負はせてよい責任ではない。古語表現から言へば、落合直文門下の塩井・大町・武島の方々もあるが、これは思想をこそ望むべきが古語だといふ事を思はず、中世の語の滑らかさに溺れてしまつたので、藤村が持つてゐる若干の生の思想にすら到達する事も出来なかつた。いさゝかの手違ひのために、思想を持ちながら古語表現の完全に出来なかつた先輩がある。北村透谷でなくて、却つて湯浅半月氏であつた。詩篇や讃美歌の持つてゐる思想から、もつと宗教的な内容を持つたものへの企てが、半月さんの作物には沢山残つてゐる。半月さんの場合にも悔まれる事は、詩語の選択を誤つた事である。思想的内容の極めて乏しい平安朝語を
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