を写したものと言ふべき用語と文体から出来てゐる所にあると思ふ。けれども詩語はどこまでも、第一国語と同じものでなくてはならぬと言ふ訣ではなく、第二国語として独立しないまでも、第一国語に対してもつと自由であつてよい訣だ。そこに詩語の権威がある。第一国語から離れすぎてゐると言ふ事が誇るべき事でないと同じに、それに近いと言ふ事が必しも詩語の強みになる訣でもない。一口に言へば、詩語が現代語や近代語と同じものでなければならぬと言ふことも、この理由から声高く主張する事は出来ない。われ/\の生命をゆする程、われ/\の感情に直截なものは、今使はれてゐる国語なのだから、詩語と日常語とが同じであると言ふ事は、ひと通りも二通りも考へてよいことだ。だが多く日常の第一国語は、詩語としての煉熟を経てゐない。たゞ生きたままの語である。この日常生活には極度に生活力をもつた第一国語の生活力を、詩語としての生活力に換算するのが、今日の詩人の為事でもあり、大きな期待でもある。それの望まれない凡庸人にとつては、日常語は単なるまるたん棒である。丸太棒のもつ素朴な外貌に幻惑せられて、第一国語即詩語説を主張するだけなら、甚しい早合点である。だが場合によつては、現在の第一国語のほかに、用ゐて効果の期待出来ない題材がある。其は唯現実の生活を表現することにおいてのみ意味のある場合である。だが其すら、時としては、技術者の習練によつて、第二国語――一層溯つて詩語としての鍛錬を経た古語を用ゐて、効果をあげることがある。だがその場合は、現実のけば/\しさ、生なましさは、静かに底に沈んで柔かな光を放つであらう、が、これは一種のあなくろにずむ[#「あなくろにずむ」に傍点]に価値を置いて作る時に限るものである。これで見ても、詩は必しも現実の言葉を以て、表現するだけではなく、古語を置き替へる事も自由なのだから、其所に現れて来るものも、あなくろにずむ[#「あなくろにずむ」に傍点]と言ひ棄てられぬことが多い。語自身が論理的でないことを示すやうなものではない。言ひかへれば、一種えきぞちつく[#「えきぞちつく」に傍点]な感情を持たせること、又それよりはもつと正しげに見える詩の古くからの習慣から割合ひに高く評価せられて来た、其反感から、結果逆に古語による文体は、実質以上に軽蔑せられてゐる。併し現代語で――例へば中世以前の抒情詩を書く事は、論理的
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