て稀な例として、ヨネ・ノグチがあめりか[#「あめりか」に傍点]英語で詩を書いた様には行かなかつた。それで苦しい中から、最、適当な方法が考へ出されて来た。国語に訳された泰西の詩の飜訳文体を学ぶ事である。相当に日本化した、と言つても直訳手法に沿うた文体は、上田氏の「海潮音」の訳詩の様にはこなれてゐない。其所にある程度まで、西洋象徴詩のおもかげが見られようと言ふものである。象徴派詩人たちの訳詩集などに出て来る文体或は語句、言ひかへれば、国語でありながら、詩の用語なる古典語や、標準語とは違つた印象を与へる詩語と文体が、目に立つて多くなつて来た。それに向けて更に出来るだけ自分の表現を近づけて行くと謂つた方法が考へられて来たのである。これが成功すれば、外国語の文脈にうつして見た第二の国語の流れが現れて来ることになる訣である。だが最初にあげた小林氏の訳詩が見せてゐるやうに、さう言ふ文体になじんだ専門詩人だけには、ある点まではやつと通じる文体とはなつて来たが、其他一切の国語使用者――国民には、たゞ印象の錯雑した不思議な文体としか感じられぬものになつた。この儘に進んで行けば、専門家以外にも承認せられる文体が出来るかも知れぬが、急にさうした自信は持てない。極めて晦渋な第二国語として、殆ど詩人圏だけに通用する階級語のやうになつて行くのではないかと思ふ。平易明快なばかりが、詩の価値ではない。白楽天・ろんぐふぇろう[#「ろんぐふぇろう」に傍点]――が軽蔑される一面も、その点である。併し何としても、詩を生む心の豊かさから、いろんな表現が派生して、単純な理会者には受け取りにくいものがあると言ふ事も恥づべき事ではない。併し二つの国語の接触・感染・影響と言ふ様な直接な効果ではなく、一種不思議な飜訳文が間に横はつてゐて、それの持つ原語とも、国語ともどちらにつかずの文体が、基礎になつてゐるのでは、何としても健全とは言へぬ。我々の象徴詩に対して持つ情熱は決してさうしたえきぞちしずむ[#「えきぞちしずむ」に傍点]を対象としてゐるのではない。すでに有明・泣菫以来半世紀に近い象徴表現の努力がいまだに方法的に完成しないその前に、気移りしかけてゐるのは誇るべき事ではない。如何にしても、時を経ただけの効果を収め得てゐない。これは、詩語たる国語の障壁によるものである。その詩語は、実体からうつしたものでなく、その実体の影
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