基礎とした文体によつて、彼の宗教をゑがかうとした。私の未生以前明治十八年、「十二の石塚」を公表した人である。あれだけの内容を持ちながら、形式の、それに裏切る詩を作ることに止らせた。それに、当時の伝道文学者がさうであつた様に――和歌に於ける池袋清風も同様――日本語を以て、西洋の、殊に信仰生活を、日本化して表さうとした矛盾が、半月集の持つた筈の品格を失はしてゐるのだ。

西洋古代の宗教文学に関する語彙は、三十年代になつても、繰り返された。それが後には「花詞」と選ぶ事のない程安易な物になつたが。明治三十二年以後著しい短歌改革運動を行つた新詩社の人々の、短歌に収容した詩語は、矢張りぎりしや[#「ぎりしや」に傍点]・ろうま[#「ろうま」に傍点]或はきりすと[#「きりすと」に傍点]教の神話信仰に関した美しい詞《ことば》であつた。それを久しく用ゐて、多くの神話に現れる星や、愛を表現する花々を繰り返した結果、新詩社一派を星菫派と世間では言ふやうになつた位である。ある方面から見れば、新詩社の新派短歌は新体詩運動が短歌に形を変へて現れたものと見るべきである。だから此所にも、新体詩の改革運動のやうに、平俗な思想を避けようとしながら、完成せぬ表現から、さう言ふ安易な作物が多く出て来た。さうして曲りなりにも思想らしいものゝ出て来たのは、鉄幹・晶子両氏が、古典研究を本気になつて始めてからの事である。最初から新詩社に対抗してゐた正岡子規すらも、ぎりしや[#「ぎりしや」に傍点]・ろうま[#「ろうま」に傍点]の神話文学の影響を詩に取り入れようとした。唯それを日本的に表現しようとしたが、単なる直訳らしく見えるものを避けようとしてゐる。而も短歌にすら其があつた。名高い「佐保神の別れ悲しも。来む春に ふたゝび逢はむ我ならなくに」、日本神話の立田媛・佐保媛、その春の女神なる佐保媛を指すものとして古典的に感ぜられて来てゐるが、それはさういふ風に、子規の全作物を整頓しての考へで、彼の詩を照し合せて見ると、矢張りみゆうず[#「みゆうず」に傍点]や※[#濁点付き平仮名う、1−4−84]いなす[#「※[#濁点付き平仮名う、1−4−84]いなす」に傍点]をさういふ風に言ひ表しただけであつた。
明治十年・二十年代に安定の出来なかつた新体詩の様式に対する感覚は、三十年に入ると同時に、ほゞ到達点を見る事が出来た。それは空想に
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