い語だ」と言ふ風に。当時の詩人・文人の間に行はれた勉強の一つで、辞書を読み、その美しい語を覚える、さう言ふ行き方の、泣菫さんにあり過ぎることを諷刺したものである。矮人[#「矮人」に白丸傍点]をちひさご[#「ちひさご」に傍線]と言ふ古語で表現した事について、ひきうど[#「ひきうど」に傍線]との関係を論じてゐるあたりも、与謝野氏自身は、原書からの知識でなくては、と言ふやうな不服を暗示したものであらう。まことに日本の初期象徴詩家の描いた彩画《ダミヱ》の壁は、ほの青く光る古語を一杯に散りばめてゐたのである。近代或は、現在の日本語が単に詩の表現に適せないばかりでなく、象徴的な連想をよぶ陰翳は無いと感じたのであらう。今日からは古語の「散列層」の様に美しい、併し個々の古語自身は生きて働かない、さう言ふ泣菫曼陀羅が織り成されたのであつた。多くの詩人や、詩の観察者は、これより前にこそ、沢山の古語詩があつたものと想像して来てゐる様である。ところが事実は、さうあるべく考へた想像に過ぎなかつた。明治十年代後期から二十年代に通じて現れた詩が、今日見て、いきなり[#「いきなり」に傍点]詩としての価値の乏しさを感ぜさせるのは何によるのか。直観的にわれ/\はまづ嫌悪を感じる。それはまだ詩の文体を発見しない時代であり、既に発見して居ても、平俗なばらつど[#「ばらつど」に傍点]――日本的に言へばくどき節――の臭気をさへ深く帯びて居た。語の排列が、独立した文体の感覚を起させれば、詩としての基礎と、更に詩としての価値の半分は出来上つてゐるのだと言ふ反省などは、持つ事の出来ない時代であつた。ある人々は、七五・四行の今様を準拠としようとし、ある人々は、五七連節の長歌によらうとした外は、漠然と西洋詩型に、生命を托しようとした。併し日本語をば西洋詩型に入れようとする事が、どう言ふ意味を持つてゐるか、さう言ふことの思はれない啓蒙期であつた。詩は発想であり、思想をまづ生活化してその生活の律動によつて、新しい詩型は生れる筈だつたが、それを考へる事すらしなかつた初めの詩体は、決して初めの時代だけに終らなかつた。晩翠が出て初期の詩形をある点まで急速に敷衍し、整頓して、ある一つの決着をつけた。其と共に、藤村は新しい詩の内容が、詩形を胎んで来る事を、ある程度まで実際に示して、若い日本の詩の世界を、喜びの有頂天にひき上げた。藤村
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