来る。それだけに、親しみの点に於ては、われ/\の今使つてゐる第一国語と一つゞきである祖先語だが、特別な語学的教養のある人以外には、まるきり外国語と同じものである。だから又、現在の語と関係のない古語である程、そこに効果が出る訣だ。唯言語の一部分に於て、われ/\の知つてゐる中世語或は古語の結びつきを見る事もある。時としてはその単語全体が、読者にとつては唯祖先語であると言ふだけの親しみを感じさせるに過ぎないものもある。さういふ古語が、平俗な国語文体の中にちらばらとはめ込まれてゐるところから、一様に凡庸な国語と感ぜられ、古語の持つてゐるえきぞちつく[#「えきぞちつく」に傍点]な味すら受け容れられない場合のあるのが、最非難せられるのである。

現在の詩壇の有様を見ると、ある部分まで、作家たちの詩は、日本語を忌避してゐる様に見える。考へのある人は、自分の用ゐる語が、日本語的な印象を与へ過ぎる事を嫌つてゐる様にも見える。日本語が平俗だと考へてゐる以上に、外国語の持つてゐる様な陰翳を自在に浮べる事の出来ないのを悪《にく》んでゐるのであらう。だから何のための詩語か。結局凡庸な表現力しか持たない日本語ではないか。而も現在と関係のない、どう祷つても転生する望みのない山の石の様な詩語に過ぎないのだ。――かう言ふ風に、特に詩語として用ゐられた古語を見くびらうとする。だが明治以後どの詩派が、最古語を用ゐたか。それを考へると、我々の予期する所とは反対になつてゐる。有明・泣菫以下の象徴詩勃興時代の詩人たちを見ると、皆驚くばかり古語を使つてゐる。あの古語なんかに何の関係も持たない様に見える泡鳴すら、盛にこれを利用してゐる。蒲原氏にも同様の傾向はあつたが、――古語を活し、古語と近代語・現代語との調和の上に生命ある律的感覚の美しさを与へたのは、蒲原氏なのだが、――之を使つた上から見れば、薄田氏の方が著しく多い。薄田氏の詩には驚くばかり古語が取り込まれてゐる。泣菫さんに驚く事は、私の様な古文体の研究を専門とする者にすら、生命の感じられない死語の摂取せられてゐる事である。泣菫の語彙を批評した鉄幹は、極めて鄭重な言ひ廻しではあるが、極めて皮肉な語気を以て噂した(明星)。
たとへば「青水無月[#「青水無月」に白丸傍点]と言ふ語は、われ/\は辞書にしか見出す事は出来ないが、薄田氏だから拠り所があるに違ひない。美し
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