しない、安心な大衆作家を選ぶ樣に傾いて來たのだらう。「講釋」に思想と考證とを入れたゞけの大衆物を感心する以前に、私などは、やはり情熱を以て、さうした作家を凌ぐ名人の講釋を多く聽いてゐる。講釋の速記物――今の新聞の續き物には、講釋師の自作が多いさうだから別だ――は、聽いた時程の感興が、文章に乘つてゐないものである。此は語り手の情熱と、聽きての昂奮とが、よい状態にあるか、ないかを思はせるものだ。
曾我廼家の喜劇の臺本といふものが古くも出、近頃も少しづゝ、全集物の中や、新聞などに出て來るのを見ても、どうも、舞臺に見るだけの搏力がない。五郎といふ人は、評判どほり、相當な作劇家ではあつても、文學者ではない。殊に會話のうけわたしに、生命が缺いてゐる。私どもは、歌舞妓芝居は勿論、新派にも飽き、又さうかと言うて、藝よりも、思想よりも、傾向で押しきらうとする新劇なるものなどに、固よりやすらひは望まぬが、反對に亦昂奮も催さない。かうして、曾我廼家を愛してゐるが、可愛さうに、あれでは、五郎の作物も、會話の爲に――上方方言を使ふといふ意義ではなく――不朽の生命を持つことが出來ないと思ふ。圓朝などでも、書物を見
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