詩と散文との間を行く發想法
折口信夫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)香を※[#「嗅」の「口」に代えて「鼻」、第4水準2−94−73]ぐ。

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
(例)つく/″\
−−

かう言ふ憎々しい物言ひをして、大變な勞作を積んで入らつしやる作家諸氏に失禮に當つたら、御免下さい。どうも、私どもは批評家でない。尠くとも、優れた新進作家の發見を、片手わざとする月評擔當者風な、忠實な氣分にはなれない。ほんの漫然たる文學青年の育つたものに過ぎない事を、つく/″\思うてゐる。それで、名聲の定まつたといふより、此人の物ならと初めから、安心してかゝれる作家の物ばかりを、讀む癖がついて了うたのが、叶はない。齒に衣を著せずに言ふと、其ほど新進作家の物を見ると、失望させられるのである。此失望と、無駄とを痛感することが、大なり小なり誰にもあつて、寧力瘤を入れて、入れ損をしない、安心な大衆作家を選ぶ樣に傾いて來たのだらう。「講釋」に思想と考證とを入れたゞけの大衆物を感心する以前に、私などは、やはり情熱を以て、さうした作家を凌ぐ名人の講釋を多く聽いてゐる。講釋の速記物――今の新聞の續き物には、講釋師の自作が多いさうだから別だ――は、聽いた時程の感興が、文章に乘つてゐないものである。此は語り手の情熱と、聽きての昂奮とが、よい状態にあるか、ないかを思はせるものだ。
曾我廼家の喜劇の臺本といふものが古くも出、近頃も少しづゝ、全集物の中や、新聞などに出て來るのを見ても、どうも、舞臺に見るだけの搏力がない。五郎といふ人は、評判どほり、相當な作劇家ではあつても、文學者ではない。殊に會話のうけわたしに、生命が缺いてゐる。私どもは、歌舞妓芝居は勿論、新派にも飽き、又さうかと言うて、藝よりも、思想よりも、傾向で押しきらうとする新劇なるものなどに、固よりやすらひは望まぬが、反對に亦昂奮も催さない。かうして、曾我廼家を愛してゐるが、可愛さうに、あれでは、五郎の作物も、會話の爲に――上方方言を使ふといふ意義ではなく――不朽の生命を持つことが出來ないと思ふ。圓朝などでも、書物を見
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング