言われずとも、すべての心が、一度に了解して居た。言い難い恐怖にかみずった女たちは、誰一人声を出す者も居なかった。
身狭乳母は、今の今まで、姫の側に寄って、後から姫を抱えて居たのである。皆の人はけはいで、覚め難い夢から覚めたように、目をみひらくと、ああ、何時の間にか、姫は嫗《おむな》の両腕《もろうで》両膝の間には、居させられぬ。一時に、慟哭《どうこく》するような感激が来た。だが長い訓練が、老女の心をとり戻した。凛《りん》として、反り返る様な力が、湧き上った。
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誰《た》ぞ、弓を――。鳴弦《つるうち》じゃ。
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人を待つ間もなかった。彼女自身、壁代《かべしろ》に寄せかけて置いた白木の檀弓《まゆみ》をとり上げて居た。
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それ皆の衆――。反閇《あしぶみ》ぞ。もっと声高《こわだか》に――。あっし、あっし、それ、あっしあっし……。
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若人たちも、一人一人の心は、疾《と》くに飛んで行ってしまって居た。唯一つの声で、警※[#「馬+畢」、198−下段−5]《けいひつ》を発し、反閇《へんばい》した。
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あっし あっし。
あっし あっし あっし。
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狭い廬《いおり》の中を蹈《ふ》んで廻った。脇目からは、遶道《にょうどう》する群れのように。
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郎女様は、こちらに御座りますか。
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万法蔵院の婢女が、息をきらして走って来て、何時もなら、許されて居ぬ無作法で、近々と、廬の砌《みぎり》に立って叫んだ。
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なに――。
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皆の口が、一つであった。
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郎女様か、と思われるあて人が――、み寺の門《かど》に立って居さっせるのを見たで、知らせにまいりました。
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今度は、乳母一人の声が答えた。
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なに、み寺の門に。
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婢女を先に、行道の群れは、小石を飛す嵐の中を、早足に練り出した。
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あっし あっし あっし ……。
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声は、遠くからも聞えた。大風をつき抜く様な鋭声《とごえ》が、野面《のづら》に伝わる。
万法蔵院は、実に寂《せき》として居た。山風は物忘れした様に、鎮まって居た。夕闇はそろそろ、かぶさって来て居るのに、山裾のひらけた処を占めた寺庭は、白砂が、昼の明りに輝いていた。ここからよく見える二上の頂は、広く、赤々と夕映えている。
姫は、山田の道場の※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《まど》から仰ぐ空の狭さを悲しんでいる間に、何時かここまで来て居たのである。浄域を穢《けが》した物忌みにこもっている身、と言うことを忘れさせぬものが、其でも心の隅にあったのであろう。門の閾《しきみ》から、伸び上るようにして、山の際《は》の空を見入って居た。
暫らくおだやんで居た嵐が、又山に廻ったらしい。だが、寺は物音もない黄昏《たそがれ》だ。
男岳《おのかみ》と女岳《めのかみ》との間になだれをなした大きな曲線《たわ》が、又次第に両方へ聳《そそ》って行っている、此二つの峰の間の広い空際。薄れかかった茜の雲が、急に輝き出して、白銀の炎をあげて来る。山の間《ま》に充満して居た夕闇は、光りに照されて、紫だって動きはじめた。
そうして暫らくは、外に動くもののない明るさ。山の空は、唯白々として、照り出されて居た。肌 肩 脇 胸 豊かな姿が、山の尾上の松原の上に現れた。併し、俤《おもかげ》に見つづけた其顔ばかりは、ほの暗かった。
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今すこし著《しる》く み姿|顕《あらわ》したまえ――。
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郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となって靉《たなび》き、次第次第に降《さが》る様に見えた。
明るいのは、山際ばかりではなかった。地上は、砂《いさご》の数もよまれるほどである。
しずかに しずかに雲はおりて来る。万法蔵院の香殿・講堂・塔婆・楼閣・山門・僧房・庫裡《くり》、悉《ことごと》く金に、朱に、青に、昼より著《いちじる》く見え、自ら光りを発して居た。
庭の砂の上にすれすれに、雲は揺曳《ようえい》して、そこにありありと半身を顕した尊者の姿が、手にとる様に見えた。匂いやかな笑みを含んだ顔が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉じられた目は、此時、姫を認めたように、清《すず》しく見ひらいた。軽くつぐんだ脣《くちびる》は、この女性《にょしょう》に向うて、物を告げてでも居るように、ほぐれて見えた。
郎女は尊さに、目の低《た》れて来る思いがした。だが、此時を過してはと思う一心で、御姿《みすがた》から、目をそらさなかった。
あて人を讃えるものと、思いこんだあの詞《ことば》が、又心から迸《ほとばし》り出た。
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なも 阿弥陀《あみだ》ほとけ。あなとうと 阿弥陀ほとけ。
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瞬間に明りが薄れて行って、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほのぼのと暗くなり、段々に高く、又高く上って行く。姫が、目送する間もない程であった。忽《たちまち》、二上山の山の端に溶け入るように消えて、まっくらな空ばかりの、たなびく夜に、なって居た。
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あっし あっし。
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足を蹈み、前《さき》を駆《お》う声が、耳もとまで近づいて来ていた。
十八
当麻《たぎま》の邑《むら》は、此頃、一本の草、一塊《ひとくれ》の石すら、光りを持つほど、賑《にぎわ》い充《み》ちて居る。
当麻真人家《たぎまのまひとけ》の氏神当麻彦の社へ、祭り時に外れた昨今、急に、氏上の拝礼があった。故|上総守老真人《かずさのかみおゆのまひと》以来、暫らく絶えて居たことである。
其上、もうに二三日に迫った八月《はつき》の朔日《ついたち》には、奈良の宮から、勅使が来向われる筈になって居た。当麻氏から出られた大夫人《だいふじん》のお生み申された宮の御代に、あらたまることになったからである。廬堂の中は、前よりは更に狭くなって居た。郎女が、奈良の御館《みたち》からとり寄せた高機《たかはた》を、設《た》てたからである。機織りに長《た》けた女も、一人や二人は、若人の中に居た。此女らの動かして見せる筬《おさ》や梭《ひ》の扱い方を、姫はすぐに会得した。機に上って日ねもす、時には終夜《よもすがら》織って見るけれど、蓮の糸は、すぐに円《つぶ》になったり、断《き》れたりした。其でも、倦《う》まずにさえ織って居れば、何時か織りあがるもの、と信じている様に、脇目からは見えた。
乳母《ちおも》は、人に見せた事のない憂わしげな顔を、此頃よくしている。
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何しろ、唐土《もろこし》でも、天竺《てんじく》から渡った物より手に入らぬ、という藕糸織《はすいとお》りを遊ばそう、と言うのじゃもののう。
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話相手にもしなかった若い者たちに、時々うっかりと、こんな事を、言う様になった。
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こう糸が無駄になっては。
今の間にどしどし績《う》んで置かいでは――。
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乳母の語に、若人たちは又、広々として野や田の面におり立つことを思うて、心がさわだった。そうして、女たちの刈りとった蓮積み車が、廬《いおり》に戻って来ると、何よりも先に、田居への降り道に見た、当麻の邑《むら》の騒ぎの噂である。
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郎女《いらつめ》様のお従兄恵美の若子《わくご》さまのお母《はら》様も、当麻真人のお出じゃげな――。
恵美の御館《みたち》の叔父君の世界、見るような世になった。
兄御を、帥《そつ》の殿に落しておいて、御自身はのり越して、内相の、大師の、とおなりのぼりの御心持ちは、どうあろうのう――。
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あて人に仕えて居ても、女はうっかりすると、人の評判に時を移した。
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やめい やめい。お耳ざわりぞ。
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しまいには、乳母が叱りに出た。だが、身狭刀自《むさのとじ》自身のうちにも、もだもだと咽喉《のど》につまった物のある感じが、残らずには居なかった。そうして、そんなことにかまけることなく、何の訣《わけ》やら知れぬが、一心に糸を績み、機を織って居る育ての姫が、いとおしくてたまらぬのであった。
昼の中多く出た虻《あぶ》は、潜んでしまったが、蚊は仲秋になると、益々あばれ出して来る。日中の興奮で、皆は正体もなく寝た。身狭までが、姫の起き明す灯の明りを避けて、隅の物陰に、深い鼾《いびき》を立てはじめた。
郎女は、断《き》れては織り、織っては断れ、手がだるくなっても、まだ梭《ひ》を放そうともせぬ。
だが、此頃の姫の心は、満ち足ろうて居た。あれほど、夜々《よるよる》見て居た俤人《おもかげびと》の姿も見ずに、安らかな気持ちが続いているのである。
「此機を織りあげて、はようあの素肌のお身を、掩《おお》うてあげたい。」
其ばかり考えて居る。世の中になし遂げられぬもののあると言うことを、あて人は知らぬのであった。
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ちょう ちょう はた はた。
はた はた ちょう……。
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筬《おさ》を流れるように、手もとにくり寄せられる糸が、動かなくなった。引いても扱《こ》いても通らぬ。筬の歯が幾枚も毀《こぼ》れて、糸筋の上にかかって居るのが見える。
郎女は、溜《た》め息《いき》をついた。乳母に問うても、知るまい。女たちを起して聞いた所で、滑らかに動かすことはえすまい。
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どうしたら、よいのだろう。
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姫ははじめて、顔へ偏ってかかって来る髪のうるささを感じた。筬の櫛目《くしめ》を覗いて見た。梭もはたいて見た。
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ああ、何時になったら、したてた衣《ころも》を、お肌へふくよかにお貸し申すことが出来よう。
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もう外の叢《くさむら》で鳴き出した、蟋蟀《こおろぎ》の声を、瞬間思い浮べて居た。
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どれ、およこし遊ばされ。こう直せば、動かぬこともおざるまい――。
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どうやら聞いた気のする声が、機の外にした。
あて人の姫は、何処から来た人とも疑わなかった。唯、そうした好意ある人を、予想して居た時なので、
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見てたもれ。
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機をおりた。
女は尼であった。髪を切って尼そぎにした女は、其も二三度は見かけたことはあったが、剃髪《ていはつ》した尼には会うたことのない姫であった。
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はた はた ちょう ちょう
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元の通りの音が、整って出て来た。
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蓮の糸は、こう言う風では、織れるものではおざりませぬ。もっと寄って御覧《ごろう》じ――。これこう――おわかりかえ。
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当麻語部|姥《うば》の声である。だが、そんなことは、郎女の心には、間題でもなかった。
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おわかりなさるかえ。これこう――。
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姫の心は、こだま[#「こだま」に傍点]の如く聡《さと》くなって居た。此|才伎《てわざ》の経緯《ゆきたて》は、すぐ呑み込まれた。
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織ってごろうじませ。
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姫が、高機に代って入ると、尼は機陰に身を倚《よ》せて立つ。
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はた はた ゆら ゆら。
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音までが、変って澄み上った。
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女鳥《めとり》の わがおおきみの織《おろ》す機。誰《た》が為《た》ねろかも――、御存じ及びでおざりましょうのう。昔、こう、機殿の※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87
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