−68]《まど》からのぞきこうで、問われたお方様がおざりましたっけ。
――その時、その貴い女性《にょしょう》がの、
たか行くや隼別《はやぶさわけ》の御被服料《みおすいがね》――そうお答えなされたとのう。
この中《じゅう》申し上げた滋賀津彦は、やはり隼別でもおざりました。天若日子《あめわかひこ》でもおざりました。天《てん》の日《ひ》に矢を射かける――。併し、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。截《き》りはたり、ちょうちょう。それ――、早く織らねば、やがて、岩牀《いわどこ》の凍る冷い冬がまいりますがよ――。
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郎女は、ふっと覚めた。あぐね果てて、機の上にとろとろとした間の夢だったのである。だが、梭をとり直して見ると、
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はた はた ゆら ゆら。ゆら はたた。
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美しい織物が、筬の目から迸《ほとばし》る。
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はた はた ゆら ゆら。
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思いつめてまどろんでいる中に、郎女の智慧が、一つの閾《しきみ》を越えたのである。

   十九

望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反《ひとむら》の上帛《はた》を、夜の更けるのも忘れて、見讃《みはや》して居た。
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この月の光りを受けた美しさ。
※[#「糸+兼」、第3水準1−90−17]《かとり》のようで、韓織《からおり》のようで、――やっぱり、此より外にはない、清らかな上帛じゃ。
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乳母も、遠くなった眼をすがめながら、譬《たと》えようのない美しさと、ずっしりとした手あたりを、若い者のように楽しんでは、撫でまわして居た。
二度目の機は、初めの日数の半《なから》であがった。三反の上帛を織りあげて、姫の心には、新しい不安が頭をあげて来た。五反目を織りきると、機に上ることをやめた。そうして、日も夜も、針を動した。
長月の空は、三日の月のほのめき出したのさえ、寒く眺められる。この夜寒に、俤人の肩の白さを思うだけでも、堪えられなかった。
裁ち縫うわざは、あて人の子のする事ではなかった。唯、他人《ひと》の手に触れさせたくない。こう思う心から、解いては縫い、縫うてはほどきした。現《うつ》し世《よ》の幾人にも当る大きなお身に合う衣を、縫うすべを知らなかった。せっかく織り上げた上帛を、裁ったり截ったり、段々布は狭くなって行く。
女たちも、唯姫の手わざを見て居るほかはなかった。何を縫うものとも考え当らぬ囁《ささや》きに、日を暮すばかりである。
其上、日に増し、外は冷えて来る。人々は一日も早く、奈良の御館に帰ることを願うばかりになった。郎女は、暖かい昼、薄暗い廬の中で、うっとりとしていた。その時、語部《かたり》の尼が歩み寄って来るのを、又まざまざと見たのである。
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何を思案遊ばす。壁代《かべしろ》の様に縦横に裁ちついで、其まま身に纏《まと》うようになさる外はおざらぬ。それ、ここに紐《ひも》をつけて、肩の上でくくりあわせれば、昼は衣になりましょう。紐を解き敷いて、折り返し被《かぶ》れは、やがて夜の衾《ふすま》にもなりまする。天竺の行人《ぎょうにん》たちの著《き》る僧伽梨《そうぎゃり》と言うのが、其でおざりまする。早くお縫いあそばされ。
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だが、気がつくと、やはり昼の夢を見て居たのだ。裁ちきった布を綴り合せて縫い初めると、二日もたたぬ間に、大きな一面の綴りの上帛《はた》が出来あがった。
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郎女《いらつめ》様は、月ごろかかって、唯の壁代《かべしろ》をお織りなされた。
あったら 惜しやの。
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はり[#「はり」に傍点]が抜けたように、若人たちが声を落して言うて居る時、姫は悲しみながら、次の営みを考えて居た。
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「これでは、あまり寒々としている。殯《もがり》の庭の棺《ひつぎ》にかけるひしきもの[#「ひしきもの」に傍点]―喪氈―、とやら言うものと、見た目にかわりはあるまい。」
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   二十

もう、世の人の心は賢《さか》しくなり過ぎて居た。独り語りの物語りなどに、信《しん》をうちこんで聴く者のある筈はなかった。聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言う者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だったなど言う話が、どの村でも、笑い咄《ばなし》のように言われるような世の中になって居た。当麻語部《たぎまのかたりべ》の嫗《おむな》なども、都の上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》の、もの疑いせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、忽《たちまち》違った氏の語部なるが故に、追い退《の》けられたのであった。
そう言う聴きてを見あてた刹那《せつな》に、持った執心の深さ。その後、自身の家の中でも、又|廬堂《いおりどう》に近い木立ちの陰でも、或は其処を見おろす山の上からでも、郎女に向ってする、ひとり語りは続けられて居た。
今年八月、当麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされたあの時こそ、再|己《おの》が世が来た、とほくそ笑み[#「ほくそ笑み」に傍点]をした――が、氏の神祭りにも、語部を請《しょう》じて、神語りを語らそうともせられなかった。ひきついであった、勅使の参向の節にも、呼び出されて、当麻氏の古物語りを奏上せい、と仰せられるか、と思うて居た予期《あらまし》も、空頼みになった。
此はもう、自身や、自身の祖《おや》たちが、長く覚え伝え、語りついで来た間、こうした事に行き逢おうとは、考えもつかなかった時代《ときよ》が来たのだ、と思うた瞬間、何もかも、見知らぬ世界に追放《やら》われている気がして、唯驚くばかりであった。娯《たの》しみを失いきった語部の古婆は、もう飯を喰べても、味は失うてしまった。水を飲んでも、口をついて、独り語りが囈語《うわごと》のように出るばかりになった。
秋深くなるにつれて、衰えの、目立って来た姥《うば》は、知る限りの物語りを、喋《しゃべ》りつづけて死のう、と言う腹をきめた。そうして、郎女の耳に近い処をところ[#「ところ」に傍点]をと覓《もと》めて、さまよい歩くようになった。

郎女は、奈良の家に送られたことのある、大唐の彩色《えのぐ》の数々を思い出した。其を思いついたのは、夜であった。今から、横佩墻内《よこはきかきつ》へ馳《か》けつけて、彩色を持って還《かえ》れ、と命ぜられたのは、女の中に、唯一人残って居た長老《おとな》である。ついしか、こんな言いつけをしたことのない郎女の、性急な命令に驚いて、女たちは復《また》、何か事の起るのではないか、とおどおどして居た。だが、身狭乳母《むさのちおも》の計いで、長老は渋々、夜道を、奈良へ向って急いだ。
あくる日、絵具の届けられた時、姫の声ははなやいで、興奮《はや》りかに響いた。
女たちの噂した所の、袈裟《けさ》で謂《い》えば、五十条の大衣《だいえ》とも言うべき、藕糸《ぐうし》の上帛《はた》の上に、郎女の目はじっとすわって居た。やがて筆は、愉《たの》しげにとり上げられた。線描《すみが》きなしに、うちつけに絵具を塗り進めた。美しい彩画《たみえ》は、七色八色の虹のように、郎女の目の前に、輝き増して行く。
姫は、緑青を盛って、層々うち重る楼閣|伽藍《がらん》の屋根を表した。数多い柱や、廊の立ち続く姿が、目赫《めかがや》くばかり、朱で彩《た》みあげられた。むらむらと靉《たなび》くものは、紺青の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の上から、画きおろされた、雲の上には金泥《こんでい》の光り輝く靄《もや》が、漂いはじめた。姫の命を搾るまでの念力が、筆のままに動いて居る。やがて金色《こんじき》の雲気は、次第に凝り成して、照り充ちた色身《しきしん》――現《うつ》し世《よ》の人とも見えぬ尊い姿が顕《あらわ》れた。
郎女は唯、先の日見た、万法蔵院の夕《ゆうべ》の幻を、筆に追うて居るばかりである。堂・塔・伽藍すべては、当麻のみ寺のありの姿であった。だが、彩画の上に湧き上った宮殿《くうでん》楼閣は、兜率天宮《とそつてんぐう》のたたずまいさながらであった。しかも、其四十九重の宝宮の内院に現れた尊者の相好《そうごう》は、あの夕、近々と目に見た俤《おもかげ》びとの姿を、心に覓《と》めて描き顕したばかりであった。
刀自《とじ》・若人たちは、一刻一刻、時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて来る光りの霞に、唯見呆けて居るばかりであった。
郎女が、筆をおいて、にこやかな笑《えま》いを、円《まろ》く跪坐《ついい》る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。まして、戸口に消える際《きわ》に、ふりかえった姫の輝くような頬のうえに、細く伝うもののあったのを知る者の、ある訣《わけ》はなかった。
姫の俤びとに貸す為の衣に描いた絵様《えよう》は、そのまま曼陀羅《まんだら》の相《すがた》を具えて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身の幻を描いたに過ぎなかった。併し、残された刀自・若人たちの、うち瞻《まも》る画面には、見る見る、数千地涌《すせんじゆ》の菩薩《ぼさつ》の姿が、浮き出て来た。其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢のたぐいかも知れぬ。



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第24巻」中央公論社
   1977(昭和42)年10月25日発行
初出:「日本評論」第14巻1号〜3号
   1939(昭和14)年1月〜3月
初収単行本:「死者の書」青磁社
   1943(昭和18)年9月
※誤植と組み体裁の誤りが疑われる箇所は、底本の親本を参照して修正しました。
入力:kompass
校正:米田進
2003年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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