春日山の奥へ入ったものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山《たかまどやま》の墓原も、佐紀の沼地・雑木原も、又は、南は山村《やまむら》、北は奈良山、泉川の見える処まで馳せ廻って、戻る者も戻る者も、皆|空足《からあし》を踏んで来た。
姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へ西へと辿《たど》って来た。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教わらないで、裾を脛《はぎ》まであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、髻《もとどり》をとり束ねて、襟から着物の中に、含《くく》み入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。
姫の行くてには常に、二つの峰の並んだ山の立ち姿がはっきりと聳《そび》えて居た。毛孔《けあな》の竪《た》つような畏《おそろ》しい声を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であった。其後、頻《しき》りなく断続したのは、山の獣の叫び声であった。大和の内も、都に遠い広瀬・葛城あたりには、人居などは、ほんの忘れ残りのように、山陰などにあるだけで、あとは曠野《あらの》。それに――本村《ほんむら》を遠く離れた、時はずれの、人|棲《す》まぬ田居《たい》ばかりである。
片破れ月
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