、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を写し終えて、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であった。経巻の最後の行、最後の字を書きあげて、ほっと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなって居る。目をあげて見る蔀窓《しとみど》の外には、しとしとと――音がしたたって居るではないか。姫は立って、手ずから簾《すだれ》をあげて見た。雨。
苑《その》の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも、音が立って来た。
姫は、立っても坐《い》ても居られぬ、焦躁《しょうそう》に悶《もだ》えた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が来た。
茫然《ぼうぜん》として、姫はすわって居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加って来た風の響きも、もう、姫は聞かなかった。

   七

南家の郎女の神隠しに遭ったのは、其夜であった。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、気がつかずに居た。横佩墻内《よこはきかきつ》に住む限りの者は、男も、女も、上の空になって、洛中《らくちゅう》洛外《らくがい》を馳《は》せ求めた。そうした奔《はし》り人《びと》の多く見出される場処と言う場処は、残りなく捜された。
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