になった。其でも、八百部の声を聞く時分になると、衰えたなりに、健康は定まって来たように見えた。やや蒼みを帯びた皮膚に、心もち細って見える髪が、愈々《いよいよ》黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言うことを厭《いと》うようになった。そうして、昼すら何か夢見るような目つきして、うっとり蔀戸ごしに、西の空を見入って居るのが、皆の注意をひくほどであった。
実際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなった。二十部・三十部・五十部。心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがいなさ[#「ふがいなさ」に傍点]を悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出来ように、と思うからである。
南家の郎女が、宮から召されることになるだろうと言う噂が、京・洛外《らくがい》に広がったのも、其頃である。屋敷中の人々は、上近く事《つか》える人たちから、垣内《かきつ》の隅に住む奴隷《やっこ》・婢奴《めやっこ》の末にまで、顔を輝かして、此とり沙汰を迎えた。でも姫には、誰一人其を聞かせる者がなかった。其ほど、此頃の郎女は気むつかしく、外目《よそめ》に見えていたのである。
千部手写の望みは、
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