いものが、なかなか多かった。
学問や、芸術の味いを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて太宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであった。
南家の郎女《いらつめ》の手に入った称讃浄土経も、大和一国の大寺《おおてら》と言う大寺に、まだ一部も蔵せられて居ぬものであった。
姫は、蔀戸《しとみど》近くに、時としては机を立てて、写経をしていることもあった。夜も、侍女たちを寝静まらしてから、油火《あぶらび》の下で、一心不乱に書き写して居た。
百部は、夙《はや》くに写し果した。その後は、千部手写の発願をした。冬は春になり、夏山と繁った春日山も、既に黄葉《もみじ》して、其がもう散りはじめた。蟋蟀《こおろぎ》は、昼も苑《その》一面に鳴くようになった。佐保川の水を堰《せ》き入れた庭の池には、遣り水伝いに、川千鳥の啼《な》く日すら、続くようになった。
今朝も、深い霜朝を、何処からか、鴛鴦《おしどり》の夫婦鳥《つまどり》が来て浮んで居ります、と童女《わらわめ》が告げた。
五百部を越えた頃から、姫の身は、目立ってやつれて来た。ほんの纔《わず》かの眠りをとる間も、ものに驚いて覚めるよう
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