家を出る時、ほんの暫し、心を掠《かす》めた――父君がお聞きになったら、と言う考えも、もう気にはかからなくなって居る。乳母があわてて探すだろう、と言う心が起って来ても、却《かえっ》てほのかな、こみあげ笑いを誘う位の事になっている。
山はずっしりとおちつき、野はおだやかに畝《うね》って居る。こうして居て、何の物思いがあろう。この貴《あて》な娘御は、やがて後をふり向いて、山のなぞえについて、次第に首をあげて行った。
二上山。ああこの山を仰ぐ、言い知らぬ胸騒ぎ。――藤原・飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すっかり違った胸の悸《ときめ》き。旅の郎女は、脇目も触らず、山に見入っている。そうして、静かな思いの充ちて来る満悦を、深く覚えた。昔びとは、確実な表現を知らぬ。だが謂《い》わば、――平野の里に感じた喜びは、過去生《かこしょう》に向けてのものであり、今此山を仰ぎ見ての驚きは、未来世《みらいせ》を思う心躍りだ、とも謂えよう。
塔はまだ、厳重にやらい[#「やらい」に傍点]を組んだまま、人の立ち入りを禁《いまし》めてあった。でも、ものに拘泥することを教えられて居ぬ姫は、何時の間にか、塔の初
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