なかろうか。其東に平たくて低い背を見せるのは、聞えた香具山なのだろう。旅の女子《おみなご》の目は、山々の姿を、一つ一つに辿《たど》っている。天香具山《あめのかぐやま》をあれだと考えた時、あの下が、若い父母《ちちはは》の育った、其から、叔父叔母、又一族の人々の、行き来した、藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬ、と知れて居ても、ひとりで、爪先立てて伸び上る気持ちになって来るのが抑えきれなかった。
香具山の南の裾に輝く瓦舎《かわらや》は、大官大寺《だいかんだいじ》に違いない。其から更に真南の、山と山との間に、薄く霞んでいるのが、飛鳥の村なのであろう。父の父も、母の母も、其又父母も、皆あのあたりで生い立たれたのであろう。この国の女子に生れて、一足も女部屋を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎《かげろう》の立っている平原を、此足で、隅から隅まで歩いて見たい。
こう、その女性《にょしょう》は思うている。だが、何よりも大事なことは、此|郎女《いらつめ》――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、ここまで歩いて来ているのである。其も、唯のひとりでであった。

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