そうしたように、此世に在る間そう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくっと[#「のくっと」に傍点]起き直ろうとした。だが、筋々が断《き》れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫《くじ》けるような、疼《うず》きを覚えた。……そうして尚、じっと、――じっとして居る。射干玉《ぬばたま》の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたままで居た。耳面刀自の記憶。ただ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓《ひろが》って、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想《れんそう》の紐《ひも》に貫いて行く。そうして明るい意思が、彼の人の死枯《しにが》れたからだに、再《ふたたび》立ち直って来た。
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耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまえのことを聞きわたった年月は、久しかった。おれによって来い。耳面刀自。
[#ここで字下げ終わり]
記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。
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おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、ここは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすっかり、おれは忘れた。
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