だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声《ね》を聞いたのだっけ。そうだ。訳語田《おさだ》の家を引き出されて、磐余《いわれ》の池に行った。堤の上には、遠捲《とおま》きに人が一ぱい。あしこの萱原《かやはら》、そこの矮叢《ぼさ》から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚《おら》び声を、挙げて居たっけな。あの声は残らず、おれをいとしがって居る、半泣きの喚《わめ》き声だったのだ。其でもおれの心は、澄みきって居た。まるで、池の水だった。あれは、秋だったものな。はっきり聞いたのが、水の上に浮いている鴨鳥の声だった。今思うと――待てよ。其は何だか一目惚《ひとめぼ》れの女の哭《な》き声だった気がする。――おお、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急に締めあげられるような刹那《せつな》を、通った気がした。俄《にわ》かに、楽な広々とした世間に、出たような感じが来た。そうして、ほんの暫らく、ふっ[#「ふっ」に傍点]とそう考えたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去った――おれ自分すら、おれが何だか、ちっとも訣《わか》らぬ世界のものになってしまったのだ。
ああ、其時きり、おれ
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