げ終わり]
こんな事を言わして置くと、折角澄みかかった心も、又曇って来そうな気がする。家持は忙《あわ》てて、資人の口を緘《と》めた。
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うるさいぞ。誰に言う語だと思うて、言うて居るのだ。やめぬか。雑談《じょうだん》だ。雑談を真に受ける奴が、あるものか。
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馬はやっぱり、しっとしっとと、歩いて居た。築土垣 築土垣。又、築土垣。こんなに何時の間に、家構えが替って居たのだろう。家持は、なんだか、晩《おそ》かれ早かれ、ありそうな気のする次の都――どうやらこう、もっとおっぴらいた平野の中の新京城にでも、来ているのでないかと言う気が、ふとしかかったのを、危く喰いとめた。
築土垣 築土垣。もう、彼の心は動かなくなった。唯、よいとする気持ちと、よくないと思おうとする意思との間に、気分だけが、あちらへ寄りこちらへよりしているだけであった。
何時の間にか、平群《へぐり》の丘や、色々な塔を持った京西の寺々の見渡される、三条辺の町尻に来て居ることに気がついた。
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これはこれは。まだここに、残っていたぞ。
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珍しい発見をしたように、彼は馬から身を翻《かえ》しておりた。二人の資人はすぐ、馳《か》け寄って手綱を控えた。
家持は、門と門との間に、細かい柵《さく》をし囲《めぐ》らし、目隠しに枳殻《からたちばな》の叢生《やぶ》を作った家の外構えの一個処に、まだ石城《しき》が可なり広く、人丈にあまる程に築いてあるそばに、近寄って行った。
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荒れては居るが、ここは横佩墻内《よこはきかきつ》だ。
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そう言って、暫らく息を詰めるようにして、石垣の荒い面を見入って居た。
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そうに御座ります。此石城からしてついた名の、横佩墻内だと申しますとかで、せめて一ところだけは、と強いてとり毀《こぼ》たないとか申します。何分、帥《そつ》の殿のお都入りまでは、何としても、此儘《このまま》で置くので御座りましょう。さように、人が申し聞けました。はい。
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何時の間にか、三条七坊まで来てしまっていたのである。
おれは、こんな処へ来ようと言う考えはなかったのに――。だが、やっぱり、おれにはまだまだ、若い色好みの心が、失せないで居るぞ。何だか、自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが出て来た。
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其にしても、静か過ぎるではないか。
さようで。で御座りますが、郎女《いらつめ》のお行くえも知れ、乳母もそちらへ行ったとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りましょう。
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詮索ずきそうな顔をした若い方が、口を出す。
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いえ。第一、こんな場合は、騒ぐといけません。騒ぎにつけこんで、悪い魂《たま》や、霊《もの》が、うようよとつめかけて来るもので御座ります。この御館《みたち》も、古いおところだけに、心得のある長老《おとな》の一人や、二人は、難波へも下らずに、留守に居るので御座りましょう。
もうよいよい。では戻ろう。
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十
おとめの閨戸《ねやど》をおとなう風《ふう》は、何も、珍しげのない国中の為来《しきた》りであった。だが其にも、曾《かつ》てはそうした風の、一切行われて居なかったことを、主張する村々があった。何時のほどにか、そうした村が、他村の、別々に守って来た風習と、その古い為来りとをふり替えることになったのだ、と言う。かき上る段になれば、何の雑作もない石城だけれど、あれを大昔からとり廻して居た村と、そうでない村とがあった。こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老《とね》たちが、どうかすると居た。多分やはり、語部などの昔語りから、来た話なのであろう。踏み越えても這入《はい》れ相《そう》に見える石垣だが、大昔交された誓いで、目に見えぬ鬼神《もの》から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になっている。こんな約束が、人と鬼《もの》との間にあって後、村々の人は、石城の中に、ゆったりと棲《す》むことが出来る様になった。そうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入って来る。其は、別の何かの為方で、防ぐ外はなかった。祭りの夜でなくても、村なかの男は何の憚《はばか》りなく、垣を踏み越えて処女の蔀戸《しとみど》をほとほとと叩く。石城を囲うた村には、そんなことは、一切なかった。だから、美《くわ》し女《め》の家に、奴隷《やっこ》になって住みこんだ古《いにしえ》の貴《あて》びともあった。娘の父にこき使われて、三年五年、いつか処女に会われよう、と忍び過した、身にしむ恋物語りもあるくらいだ。石城を掘り崩すのは、何処からでも鬼
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