彼の胸に、もたれかかって来るのを感じた。
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おれには、だが、この築土垣を択《と》ることが出来ぬ。
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家持の乗馬《じょうめ》は再、憂鬱《ゆううつ》に閉された主人を背に、引き返して、五条まで上って来た。此辺から、右京の方へ折れこんで、坊角《まちかど》を廻りくねりして行く様子は、此主人に馴れた資人たちにも、胸の測られぬ気を起させた。二人は、時々顔を見合せ、目くばせをしながら尚、了解が出来ぬ、と言うような表情を交しかわし、馬の後を走って行く。
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こんなにも、変って居たのかねえ。
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ある坊角に来た時、馬をぴたと止めて、独り言のように言った。
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……旧草《ふるくさ》に 新草《にひくさ》まじり、生ひば 生ふるかに――だな。
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近頃見つけた歌※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]所《かぶしょ》の古記録「東歌《あずまうた》」の中に見た一首がふと、此時、彼の言いたい気持ちを、代作して居てくれていたように、思い出された。
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そうだ。「おもしろき野《ぬ》をば 勿《な》焼きそ」だ。此でよいのだ。
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けげんな顔を仰《あおむけ》けている伴人《ともびと》らに、柔和な笑顔を向けた。
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そうは思わぬか。立ち朽《ぐさ》りになった家の間に、どしどし新しい屋敷が出来て行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが、其でもどちらかと謂えば、減るよりも殖えて行っている。此辺は以前、今頃になると、蛙めの、あやまりたい程鳴く田の原が、続いてたもんだ。
仰《おっしゃ》るとおりで御座ります。春は蛙、夏はくちなわ、秋は蝗《いなご》まろ。此辺はとても、歩けたところでは、御座りませんでした。
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今一人が言う。
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建つ家もたつ家も、この立派さは、まあどうで御座りましょう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣《つきひじがき》を築きまわしまして。何やら、以前とはすっかり変った処に、参った気が致します。
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馬上の主人も、今まで其ばかり考えて居た所であった。だが彼の心は、瞬間明るくなって、先年|三形王《みかたのおおきみ》の御殿での宴《うたげ》に誦《くちずさ》んだ即興が、その時よりも、今はっきりと内容を持って、心に浮んで来た。
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うつり行く時見る毎に、心|疼《いた》く 昔の人し 思ほゆるかも
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目をあげると、東の方春日の杜《もり》は、谷陰になって、ここからは見えぬが、御蓋《みかさ》山・高円《たかまど》山一帯、頂が晴れて、すばらしい春日和《はるびより》になって居た。
あきらめがさせるのどけさなのだ、とすぐ気がついた。でも、彼の心のふさぎのむし[#「ふさぎのむし」に傍点]は迹《あと》を潜めて、唯、まるで今歩いているのが、大日本平城京《おおやまとへいせいけい》の土ではなく、大唐長安の大道の様な錯覚の起って来るのが押えきれなかった。此馬がもっと、毛並みのよい純白の馬で、跨《またが》って居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の気がして来る。神々から引きついで来た、重苦しい家の歴史だの、夥《おびただ》しい数の氏人などから、すっかり截《き》り離されて、自由な空にかけって居る自分ででもあるような、豊かな心持ちが、暫らくは払っても払っても、消えて行かなかった。
おれは若くもなし。第一、海東の大日本人《おおやまとびと》である。おれには、憂鬱《ゆううつ》な家職が、ひしひしと、肩のつまるほどかかって居るのだ。こんなことを考えて見ると、寂しくてはかない気もするが、すぐに其は、自身と関係のないことのように、心は饒《にぎ》わしく和らいで来て、為方がなかった。
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おい、汝《わけ》たち。大伴|氏上家《うじのかみけ》も、築土垣を引き廻そうかな。
とんでもないことを仰せられます。
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二人の声が、おなじ感情から迸《ほとばし》り出た。
年の増した方の資人《とねり》が、切実な胸を告白するように言った。
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私どもは、御譜第では御座りません。でも、大伴と言うお名は、御門《みかど》御垣《みかき》と、関係深い称《とな》えだ、と承って居ります。大伴家からして、門垣を今様にする事になって御覧《ごろう》じませ。御一族の末々まで、あなた様をお呪《のろ》い申し上げることでおざりましょう。其どころでは、御座りません。第一、ほかの氏々――大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい、人の世になって初まった家々の氏人までが、御一族を蔑《ないがしろ》に致すことになりましょう。
[#ここで字下
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