、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言い、又御自身の御発起からだとも言うが、一人の尊いみ子が、昔の地を占めにお出でなされて、大伽藍《だいがらん》を建てさせられた。其際、山田寺の旧構を残すため、寺の四至の中、北の隅へ、当時立ち朽《ぐさ》りになって居た堂を移し、規模を小くして造られたもの、と伝え言うのであった。そう言えば、山田寺は、役君小角《えのきみおづぬ》が、山林仏教を創《はじ》める最初の足代《あししろ》になった処だと言う伝えが、吉野や、葛城の山伏行人《やまぶしぎょうにん》の間に行われていた。何しろ、万法蔵院の大伽藍が焼けて百年、荒野の道場となって居た、目と鼻との間に、こんな古い建て物が、残って居たと言うのも、不思議なことである。
夜は、もう更けて居た。谷川の激《たぎ》ちの音が、段々高まって来る。二上山の二つの峰の間から、流れくだる水なのだ。
廬の中は、暗かった。炉を焚《た》くことの少い此辺では、地下《じげ》百姓は、夜は真暗な中で、寝たり、坐ったりしているのだ。でもここには、本尊が祀《まつ》ってあった。夜を守って、仏の前で起き明す為には、御灯《みあかし》を照した。
孔雀明王の姿が、あるかないかに、ちろめく光りである。
姫は寝ることを忘れたように、坐って居た。
万法蔵院の上座の僧綱《そうごう》たちの考えでは、まず奈良へ使いを出さねばならぬ。横佩家《よこはきけ》の人々の心を、思うたのである。次には、女人結界《にょにんけっかい》を犯して、境内深く這入《はい》った罪は、郎女《いらつめ》自身に贖《あがな》わさねばならなかった。落慶のあったばかりの浄域だけに、一時は、塔頭《たっちゅう》塔頭の人たちの、青くなったのも、道理である。此は、財物を施入する、と謂《い》ったぐらいではすまされぬ。長期の物忌みを、寺近くに居て果させねばならぬと思った。其で、今日昼の程、奈良へ向って、早使いを出して、郎女の姿が、寺中に現れたゆくたて[#「ゆくたて」に傍点]を、仔細《しさい》に告げてやったのである。
其と共に姫の身は、此|庵室《あんしつ》に暫らく留め置かれることになった。たとい、都からの迎えが来ても、結界を越えた贖いを果す日数だけは、ここに居させよう、と言うのである。
牀《ゆか》は低いけれども、かいてあるにはあった。其替り、天井は無上《むしょう》に高くて、而も萱《かや》のそそけた屋根は、破風《はふ》の脇から、むき出しに、空の星が見えた。風が唸《うな》って過ぎたと思うと、其高い隙から、どっと吹き込んで来た。ばらばら落ちかかるのは、煤《すす》がこぼれるのだろう。明王の前の灯が、一時《いっとき》かっと明るくなった。
その光りで照し出されたのは、あさましく荒《すさ》んだ座敷だけでなかった。荒板の牀の上に、薦筵《こもむしろ》二枚重ねた姫の座席。其に向って、ずっと離れた壁ぎわに、板敷に直《じか》に坐って居る老婆の姿があった。
壁と言うよりは、壁代《かべしろ》であった。天井から吊りさげた竪薦《たつごも》が、幾枚も幾枚も、ちぐはぐに重って居て、どうやら、風は防ぐようになって居る。その壁代に張りついたように坐って居る女、先から※[#「亥+欠」、第3水準1−86−30]嗽《しわぶき》一つせぬ静けさである。貴族の家の郎女は、一日もの言わずとも、寂しいとも思わぬ習慣がついて居た。其で、この山陰の一つ家に居ても、溜《た》め息《いき》一つ洩《もら》すのではなかった。昼《ひ》の内此処へ送りこまれた時、一人の姥《うば》のついて来たことは、知って居た。だが、あまり長く音も立たなかったので、人の居ることは忘れて居た。今ふっと明るくなった御灯《みあかし》の色で、その姥の姿から、顔まで一目で見た。どこやら、覚えのある人の気がする。さすがに、姫にも人懐しかった。ようべ家を出てから、女性《にょしょう》には、一人も逢って居ない。今そこに居る姥が、何だか、昔の知り人のように感じられたのも、無理はないのである。見覚えのあるように感じたのは、だが、其親しみ故だけではなかった。
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郎女さま。
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緘黙《しじま》を破って、却《かえっ》てもの寂しい、乾声《からごえ》が響いた。
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郎女は、御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生れなさらぬ前の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。
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一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋《しゃべ》り出した。姫は、この姥の顔に見知りのある気のした訣《わけ》を、悟りはじめて居た。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじような媼《おむな》が、出入りして居た。郎女たちの居る女部屋までも、何時もずかずか這入って来て、憚《はばか》りなく古物語りを語った、あの中臣志斐媼《なかとみのしいのおむな》―
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