点]聞かぬこと。里人は唯こう、恐れ謹しんで居る、とも言った。
こんな話を残して行った里の娘たちも、苗代田の畔《あぜ》に、めいめいのかざしの躑躅花を挿して帰った。其は昼のこと、田舎は田舎らしい閨《ねや》の中に、今は寝ついたであろう。夜はひた更けに、更けて行く。
昼の恐れのなごりに、寝苦しがって居た女たちも、おびえ疲れに寝入ってしまった。頭上の崖で、寝鳥の鳴き声がした。郎女は、まどろんだとも思わぬ目を、ふっと開いた。続いて今ひと響き、びし[#「びし」に傍点]としたのは、鳥などの、翼ぐるめ[#「ぐるめ」に傍点]ひき裂かれたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、生き物も絶えたように、虚しい空間の闇に、時間が立って行った。
郎女の額《ぬか》の上の天井の光の暈《かさ》が、ほのぼのと白んで来る。明りの隈《くま》はあちこちに偏倚《かたよ》って、光りを竪《たて》にくぎって行く。と見る間に、ぱっと明るくなる。そこに大きな花。蒼白い菫《すみれ》。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、仏の花の青蓮華《しょうれんげ》と言うものであろうか。郎女の目には、何とも知れぬ浄《きよ》らかな花が、車輪のように、宙にぱっと開いている。仄暗《ほのぐら》い蕋《しべ》の処に、むらむらと雲のように、動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は黄金の髪である。髪の中から匂い出た荘厳な顔。閉じた目が、憂いを持って、見おろして居る。ああ肩・胸・顕《あら》わな肌。――冷え冷えとした白い肌。おお おいとおしい。
郎女は、自身の声に、目が覚めた。夢から続いて、口は尚夢のように、語を逐《お》うて居た。
[#ここから1字下げ]
おいとおしい。お寒かろうに――。
[#ここで字下げ終わり]
十六
山の躑躅の色は、様々ある。一つ色のものだけが、一時に咲き出して、一時に萎《しぼ》む。そうして、凡一月は、後から後から替った色のが匂い出て、禿《は》げた岩も、一冬のうら枯れをとり返さぬ柴木山《しばきやま》も、若夏の青雲の下に、はでなかざしをつける。其間に、藤の短い花房が、白く又紫に垂れて、老い木の幹の高さを、せつなく、寂しく見せる。下草に交って、馬酔木《あしび》が雪のように咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに、過ぎるのがあわれである。
もう此頃になると、山は厭《いと》わしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隠されてしまう。郭公《かっこう》は早く鳴き嗄《か》らし、時鳥《ほととぎす》が替って、日も夜も鳴く。
草の花が、どっと怒濤《どとう》の寄せるように咲き出して、山全体が花原見たようになって行く。里の麦は刈り急がれ、田の原は一様に青みわたって、もうこんなに伸びたか、と驚くほどになる。家の庭苑《その》にも、立ち替り咲き替って、栽《う》え木《き》、草花が、何処まで盛り続けるかと思われる。だが其も一盛りで、坪はひそまり返ったような時が来る。池には葦が伸び、蒲《がま》が秀《ほ》き、藺《い》が抽《ぬき》んでて来る。遅々として、併し忘れた頃に、俄《にわ》かに伸《の》し上るように育つのは、蓮の葉であった。
前年から今年にかけて、海の彼方の新羅の暴状が、目立って棄て置かれぬものに見えて来た。太宰府からは、軍船を新造して新羅征伐の設けをせよ、と言う命のお降《くだ》しを、度々都へ請うておこして居た。此忙しい時に、偶然流人|太宰員外帥《だざいいんがいのそつ》として、難波に居た横佩家《よこはきけ》の豊成は、思いがけぬ日々を送らねばならなかった。
都の姫の事は、子古の口から聴いて知ったし、又、京・難波の間を往来する頻繁な公私の使いに、文をことづてる事は易かったけれども、どう処置してよいか、途方に昏《く》れた。ちょっと見は何でもない事の様で、実は重大な、家の大事である。其だけに、常の優柔不断な心癖は、益々つのるばかりであった。
寺々の知音に寄せて、当麻寺へ、よい様に命じてくれる様に、と書いてもやった。又処置方について伺うた横佩墻内の家の長老《とね》・刀自《とじ》たちへは、ひたすら、汝等の主の郎女《いらつめ》を護って居れ、と言うような、抽象風なことを、答えて来たりした。
次の消息には、何かと具体した仰せつけがあるだろう、と待って居る間に、日が立ち、月が過ぎて行くばかりである。其間にも、姫の失われたと見える魂が、お身に戻るか、其だけの望みで、人々は、山村に止って居た。物思いに、屈託ばかりもして居ぬ若人たちは、もう池のほとりにおり立って、伸びた蓮の茎を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女《めやっこ》が、其はまだ若い、もう半月もおかねばと言って、寺領の一部に、蓮根を取る為に作ってあった蓮田《はちすだ》へ、案内しよう、と言い出した。あて人の家自身が、それぞれ、農村の大家《おおやけ》であった。其が次第に、官人《つかさび
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