春の日も、暮れてしまった。嬢子は、家路と思う径《みち》を、あちこち歩いて見た。脚は茨《いばら》の棘《とげ》にさされ、袖《そで》は、木の楚《ずわえ》にひき裂かれた。そうしてとうとう、里らしい家群《いえむら》の見える小高い岡の上に出た時は、裳も、著物《きもの》も、肌の出るほど、ちぎれて居た。空には、夕月が光りを増して来ている。嬢子はさくり上げて来る感情を、声に出した。
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ほほき ほほきい。
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何時も、悲しい時に泣きあげて居た、あの声ではなかった。「おお此身は」と思った時に、自分の顔に触れた袖は袖ではないものであった。枯《か》れ原《ふ》の冬草の、山肌色をした小な翼であった。思いがけない声を、尚も出し続けようとする口を、押えようとすると、自身すらいとおしんで居た柔らかな唇は、どこかへ行ってしまって、替りに、ささやかな管のような喙《くちばし》が来てついて居る――。悲しいのか、せつないのか、何の考えさえもつかなかった。唯、身悶《みもだ》えをした。するとふわり[#「ふわり」に傍点]と、からだは宙に浮き上った。留めようと、袖をふれば振るほど、身は次第に、高く翔《かけ》り昇って行く。五日月の照る空まで……。その後、今の世までも、
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ほほき ほほきい ほほほきい。
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と鳴いているのだ、と幼い耳に染みつけられた、物語りの出雲の嬢子が、そのまま、自分であるような気がして来る。
郎女は、徐《しず》かに両袖《もろそで》を、胸のあたりに重ねて見た。家に居た時よりは、褻《な》れ、皺立《しわだ》っているが、小鳥の羽には、なって居なかった。手をあげて唇に触れて見ると、喙でもなかった。やっぱり、ほっとり[#「ほっとり」に傍点]とした感触を、指の腹に覚えた。
ほほき鳥―鶯―になって居た方がよかった。昔語りの嬢子は、男を避けて、山の楚原《しもとはら》へ入り込んだ。そうして、飛ぶ鳥になった。この身は、何とも知れぬ人の俤《おもかげ》にあくがれ出て、鳥にもならずに、ここにこうして居る。せめて蝶飛虫《ちょうとり》にでもなれば、ひらひらと空に舞いのぼって、あの山の頂へ、俤びとをつきとめに行こうもの――。
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ほほき ほほきい。
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自身の咽喉《のど》から出た声だ、と思った。だがやはり、
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