いのそつ》に貶《おと》されて、都を離れた。そうして今は、難波で謹慎しているではないか。自分の親旅人も、三十年前に踏んだ道である。
世間の氏上家《うじのかみけ》の主人《あるじ》は、大方もう、石城など築き廻《まわ》して、大門小門を繋《つな》ぐと謂《い》った要害と、装飾とに、興味を失いかけて居るのに、何とした自分だ。おれはまだ現に、出来るなら、宮廷のお目こぼしを頂いて、石に囲われた家の中で、家の子どもを集め、氏人たちを召《よ》びつどえて、弓場《ゆば》に精励させ、棒術《ほこゆけ》・大刀かき[#「大刀かき」に傍点]に出精させよう、と謂ったことを空想して居る。そうして年々《としどし》頻繁に、氏神其外の神々を祭っている。其度毎に、家の語部|大伴語造《おおとものかたりのみやつこ》の嫗《おむな》たちを呼んで、之に捉《つかま》え処もない昔代《むかしよ》の物語りをさせて、氏人に傾聴を強いて居る。何だか、空《くう》な事に力を入れて居たように思えてならぬ寂しさだ。
だが、其氏神祭りや、祭りの後宴《ごえん》に、大勢の氏人の集ることは、とりわけやかましく言われて来た、三四年以来の法度《はっと》である。
こんな溜《た》め息《いき》を洩《もら》しながら、大伴氏の旧《ふる》い習しを守って、どこまでも、宮廷守護の為の武道の伝襲に、努める外はない家持だったのである。
越中守として踏み歩いた越路の泥のかたが、まだ行縢《むかばき》から落ちきらぬ内に、もう復《また》、都を離れなければならぬ時の、迫って居るような気がして居た。其中、此針の筵《むしろ》の上で、兵部少輔《ひょうぶしょう》から、大輔《たいふ》に昇進した。そのことすら、益々脅迫感を強める方にばかりはたらいた。今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼が行われる筈で、奈良の都の貴族たちには、すでに寺から内見を願って来て居た。そうして、忙しい世の中にも、暫らくはその評判が、すべてのいざこざをおし鎮める程に、人の心を浮き立たした。本朝出来の像としてはまず、此程物凄い天部《てんぶ》の姿を拝んだことは、はじめてだ、と言うものもあった。神代の荒神《あらがみ》たちも、こんな形相でおありだったろう、と言う噂も聞かれた。
まだ公《おおやけ》の供養もすまぬのに、人の口はうるさいほど、頻繁に流説をふり撒《ま》いていた。あの多聞天と、広目天との顔つきに、思い当るものがないか、と
前へ
次へ
全80ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング