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馬上の主人も、今まで其ばかり考へて居た所であつた。だが彼の心は、瞬間明るくなつて、先年三形王の御殿での宴《ウタゲ》に誦《クチズサ》んだ即興が、その時よりも、今はつきりと内容を持つて、心に浮んで來た。
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うつり行く時見る毎に、心|疼《イタ》く 昔の人し 思ほゆるかも
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目をあげると、東の方春日の杜《モリ》は、谷陰になつて、こゝからは見えぬが、御蓋《ミカサ》山・高圓《タカマド》山一帶、頂が晴れて、すばらしい春日和になつて居た。
あきらめがさせるのどけさなのだ、とすぐ氣がついた。でも、彼の心のふさぎのむし[#「ふさぎのむし」に傍点]は迹《アト》を潜めて、唯、まるで今歩いてゐるのが、大日本平城京《オホヤマトヘイセイケイ》の土ではなく、大唐《ダイトウ》長安の大道の樣な錯覺の起つて來るのが押へきれなかつた。此馬がもつと、毛竝みのよい純白の馬で、跨つて居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の氣がして來る。神々から引きついで來た、重苦しい家の歴史だの、夥しい數の氏人などから、すつかり截り離されて、自由な空にかけつて居る自分でゞもあるやうな、豐かな心持ちが、暫らくは拂つても/\、消えて行かなかつた。
おれは若くもなし。第一、海東の大日本人《オホヤマトビト》である。おれには、憂欝な家職が、ひし/\と、肩のつまるほどかゝつて居るのだ。こんなことを考へて見ると、寂しくてはかない氣もするが、すぐに其は、自身と關係のないことのやうに、心は饒《ニギ》はしく和らいで來て、爲方がなかつた。
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をい、汝《ワケ》たち。大伴|氏上家《ウヂノカミケ》も、築土垣を引き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]さうかな。
とんでもないことを仰せられます。
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二人の聲が、おなじ感情から迸り出た。
年の増した方の資人《トネリ》が、切實な胸を告白するやうに言つた。
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私どもは御譜第では御座りません。でも、大伴と言ふお名は、御門御垣《ミカドミカキ》と、關係深い稱へだ、と承つて居ります。大伴家からして、門垣を今樣にする事になつて御覽《ゴラウ》じませ。御一族の末々まで、あなた樣をお呪《ノロ》ひ申し上げることでおざりませう。其どころでは、御座りません。第一、ほかの氏々――大伴家よりも、ぐん
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