廬堂の中は、前よりは更に狹くなつて居た。郎女が、奈良の御館からとり寄せた高機《タカハタ》を、設《タ》てたからである。機織りに長けた女も、一人や二人は、若人の中に居た。此女らの動かして見せる筬《ヲサ》や梭《ヒ》の扱ひ方を、姫はすぐに會得《ヱトク》した。機に上つて日ねもす、時には終夜《ヨモスガラ》、織つて見るけれど、蓮の絲は、すぐに圓《ツブ》になつたり、斷《キ》れたりした。其でも、倦まずにさへ織つて居れば、何時か織りあがるもの、と信じてゐる樣に、脇目からは見えた。
乳母は、人に見せた事のない憂はしげな顏を、此頃よくしてゐる。
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何しろ、唐土《モロコシ》でも、天竺から渡つた物より手に入らぬ、といふ藕絲織《ハスイトオ》りを遊ばさう、と言ふのぢやものなう。
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話相手にもしなかつた若い者たちに、時々うつかりと、こんな事を、言ふ樣になつた。
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かう絲が無駄になつては。
今の間にどし/″\績《ウ》んで置かいでは―。
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乳母《チオモ》の語に、若人たちは又、廣々とした野や田の面におり立つことを思うて、心がさわだつた。
さうして、女たちの刈りとつた蓮積み車が、廬に戻つて來ると、何よりも先に、田居への降り道に見た、當麻の邑の騷ぎの噂である。
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郎女樣のお從兄《イトコ》惠美の若子《ワクゴ》さまのお母《ハラ》樣も、當麻[#(ノ)]眞人のお出《デ》ぢやげな――。
惠美の御館《ミタチ》の叔父君の世界、見るやうな世になつた。
兄御を、帥の殿に落しておいて、御自身はのり越して、内相の、大師《タイシ》の、とおなりのぼりの御心持ちは、どうあらうなう――。
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あて人に仕へて居ても、女はうつかりすると、人の評判に時を移した。
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やめい やめい。お耳ざはりぞ。
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しまひには、乳母が叱りに出た。だが、身狹刀自《ムサノトジ》自身のうちにも、もだ/″\と咽喉につまつた物のある感じが、殘らずには居なかつた。さうして、そんなことにかまけることなく、何の訣やら知れぬが、一心に絲を績《ウ》み、機を織つて居る育ての姫が、いとほしくてたまらぬのであつた。
晝の中多く出た虻は、潜んでしまつたが、蚊は仲秋になると、益々あばれ出して來る。日中の興奮で、皆
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