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今すこし著《シル》く み姿顯したまへ――。
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郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となつて靉《タナビ》き、次第々々に降《サガ》る樣に見えた。
明るいのは、山|際《ギハ》ばかりではなかつた。地上は、砂《イサゴ》の數もよまれるほどである。
しづかに しづかに雲はおりて來る。萬法藏院の香殿・講堂・塔婆樓閣・山門僧房・庫裡、悉く金に、朱に、青に、晝より著《イチジル》く見え、自《ミヅカ》ら光りを發して居た。庭の砂の上にすれ/\に、雲は搖曳して、そこにあり/\と半身を顯した尊者の姿が、手にとる樣に見えた。匂ひやかな笑みを含んだ顏が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉ぢられた目は、此時、姫を認めたやうに、清《スヾ》しく見ひらいた。輕くつぐんだ脣は、この女性《ニヨシヤウ》に向うて、物を告げてゞも居るやうに、ほぐれて見えた。
郎女は尊さに、目の低《タ》れて來る思ひがした。だが、此時を過してはと思ふ一心で、御《ミ》姿から、目をそらさなかつた。
あて人を讃へるものと、思ひこんだあの詞が、又心から迸り出た。
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なも 阿彌陀ほとけ。あなたふと 阿彌陀ほとけ。
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瞬間に明りが薄れて行つて、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほのぼのと暗くなり、段々に高く、又高く上つて行く。
姫が、目送する間もない程であつた。忽、二上山の山の端《ハ》に溶け入るやうに消えて、まつくらな空ばかりの、たなびく夜になつて居た。
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あっし あっし。
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足を蹈み、前《サキ》を驅《オ》ふ聲が、耳もとまで近づいて來てゐた。

        十八

當麻の邑は、此頃、一本の草、一塊《ヒトクレ》の石すら、光りを持つほど、賑ひ充ちて居る。
當麻眞人家《タギマノマヒトケ》の氏神|當麻彦《タギマヒコ》の社へ、祭り時に外れた昨今、急に、氏[#(ノ)]上の拜禮があつた。故上總守|老《オユ》[#(ノ)]眞人以來、暫らく絶えて居たことである。
其上、まう二三日に迫つた八月《ハツキ》の朔日《ツイタチ》には、奈良の宮から、勅使が來向はれる筈になつて居た。當麻氏から出られた大夫人《ダイフジン》のお生み申された宮の御代に、あらたまることになつたからである。

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