ことを美徳として時代に居る身は、親の里も祖先の土も、まだ踏みも知らない。あの陽炎《かげらふ》の立つてゐる平原を、此足で隅から隅まで歩いて見たい。かう彼|女性《によしやう》は思つてゐる。だが其よりも大事なことは、此|郎女《いらつめ》――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、こゝまで歩いて来てゐるのである。其も唯のひとりであつた。
家を出る時、瞬間心を掠めた――父が案じるだらうと言ふ考へも、もう気にはかゝらなくなつて居る。乳母があわて求めるだらうと言ふ心が起つて来ても、却てほのかなこみあげ笑ひを誘ふ位の事になつてゐる。
山はづつしりとおちつき、野はおだやかに畝つて居る。こゝに居て、何の物思ひがあらう。この貴い娘は、やがて後をふり向いて、山のなぞへについて首をあげて行つた。
二上山。この山を仰ぐ時の言ひ知らぬ胸騒ぎ。藤原飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すつかり違つた懐しさ。旅の郎女は、脇目も触らず、山を仰いでゐる。さうして静かな思ひが、満悦に充ちて来るのを覚えた。昔びとは、確実な表現を知らぬ。だが謂はゞ――平野の里に感じた喜びは、過去|生《しやう》に対するものであり、今此山を臨
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